A凡そ幾十枚と知れず淋しげに立連《たちつらな》った有様を今もってありありと眼に浮べる。何という不思議な縁であろう、本堂はその日の夜、私が追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中《うち》に、すっかり灰になってしまったのだ。
芝の増上寺の焼けたのもやはりその頃の事だと私は記憶している。
半年《はんとし》ほど過ぎてから、あるいは一年ほど過ぎていたかも知れぬ。私はその頃日記をつけていなかったので確な事は覚えていない。或日再び小石川を散歩した。雨気《あまけ》を含んで重苦しい夕風が焼跡の石の間に生えた雑草の葉を吹きひるがえしているのを見た。
何しろあれだけ大きな建物がなくなってしまった事とて境内は荒野《あれの》のように広々として重苦しい夕風は真実無常を誘う風の如く処《ところ》を得顔《えがお》に勢づいて吹き廻っているように思われた。今までは本堂に遮《さえぎ》られて見えなかった裏手の墳墓が黒焦げになったまま立っている杉の枯木の間から一目に見通される。家康公《いえやすこう》の母君の墓もあれば、何とやらいう名高い上人《しょうにん》の墓もある……と小さい時私は年寄から幾度となく語り聞かされた……それらの名高い尊い墳墓も今は荒れるがままに荒れ果て、土塀の崩れた土から生えた灌木や芒《すすき》の茂りまたは倒れた石の門に這いまつわる野蔦《のづた》の葉が無常を誘う夕風にそよぎつつ折々軽い響を立てるのが何ともいえぬほど物寂しく聞
きなされた。
伝説によれば水戸黄門《みとこうもん》が犬を斬ったという寺の門だけは、幸にして火災を逃れたが、遠く後方に立つ本堂の背景がなくなってしまったので、美しく彎曲した彫刻の多いその屋根ばかりが、独りしょんぼりと曇った空の下に取り残されて立つ有様かえって殉死《じゅんし》の運命に遇わなかったのを憾《うら》み悲しむように見られた。門の前には竹矢来《たけやらい》が立てられて、本堂|再建《さいこん》の寄附金を書連《かきつら》ねた生々しい木札が並べられてあった。本堂は間もなく寄附金によって、基督《キリスト》新教の会堂の如く半分西洋風に新築されるという話……ああ何たる進歩であろう。
私は記憶している。まだ六ツか七ツの時分、芝の増上寺から移ってこの伝通院の住職になった老僧が、紫の紐をつけた長柄《ながえ》の駕籠《かご》に乗り、随喜の涙に咽《むせ》ぶ群集の善男善女《ぜんなんぜんにょ》と幾多の僧侶の行列に送られて、あの門の下を潜《くぐ》って行った目覚しい光景に接した事があった。今や 〔De'mocratie〕《デモクラシイ》 と Positivisme《ポジチビズム》 の時勢は日一日に最後の美しい歴史的色彩を抹殺して、時代に後《おく》れた詩人の夢を覚さねば止むまいとしている。
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安藤坂《あんどうざか》は平かに地ならしされた。富坂《とみざか》の火避地《ひよけち》には借家《しゃくや》が建てられて当時の名残《なごり》の樹木二、三本を残すに過ぎない。水戸藩邸《みとはんてい》の最後の面影《おもかげ》を止《とど》めた砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の大きな赤い裏門は何処へやら取除《とりの》けられ、古びた練塀《ねりべい》は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであったあの水門《すいもん》はもう影も形もない。
表町《おもてまち》の通りに並ぶ商家も大抵は目新しいものばかり。以前この辺の町には決して見られなかった西洋小間物屋、西洋菓子屋、西洋料理屋、西洋文具店、雑誌店の類《たぐい》が驚くほど沢山出来た。同じ糸屋や呉服屋の店先にもその品物はすっかり変っている。
かつては六尺町《ろくしゃくまち》の横町から流派《りゅうは》の紋所《もんどころ》をつけた柿色の包みを抱えて出て来た稽古通いの娘の姿を今は何処《いずこ》に求めようか。久堅町《ひさかたまち》から編笠《あみがさ》を冠《かぶ》って出て来る鳥追《とりおい》の三味線を何処に聞こうか。時代は変ったのだ。洗髪《あらいがみ》に黄楊《つげ》の櫛《くし》をさした若い職人の女房が松の湯とか小町湯とか書いた銭湯《せんとう》の暖簾《のれん》を掻分けて出た町の角には、でくでく[#「でくでく」に傍点]した女学生の群《むれ》が地方|訛《なま》りの嘆賞の声を放って活動写真の広告隊を見送っている。
今になって、誰一人この辺鄙《へんぴ》な小石川の高台にもかつては一般の住民が踊の名人|坂東美津江《ばんどうみつえ》のいた事を土地の誇となしまた寄席《よせ》で曲弾《きょくびき》をしたため家元から破門された三味線の名人|常磐津金蔵《ときわずきんぞう》が同じく小石川の人であった事を尽きない語草《かたりぐさ》にしたような時代のあった事を知るものがあろう。現代の或批評家は私が芸術を愛するのは巴里《パリー》を見て来たためだと思っている
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