かも知れぬ。しかしそもそも私が巴里の芸術を愛し得たその Passion その Enthousiasme の根本の力を私に授《さず》けてくれたものは、仏蘭西《フランス》人が Sarah Bernhardt に対し伊太利亜《イタリヤ》人が Eleonora Duse に対するように、坂東美津江や常磐津金蔵を崇拝した当時の若衆《わかいしゅう》の溢れ漲《みなぎ》る熱情の感化に外ならない。哥沢節《うたざわぶし》を産んだ江戸衰亡期の唯美主義《ゆいびしゅぎ》は私をして二十世紀の象徴主義を味わしむるに余りある芸術的素質をつくってくれたのである。

        *

 夕暮よりも薄暗い入梅の午後|牛天神《うしてんじん》の森蔭に紫陽花《あじさい》の咲出《さきいづ》る頃、または旅烏《たびがらす》の啼《な》き騒ぐ秋の夕方|沢蔵稲荷《たくぞういなり》の大榎《おおえのき》の止む間もなく落葉《おちば》する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天《だいこくてん》の階《きざはし》に休めさせる。その度に堂内に安置された昔のままなる賓頭盧尊者《びんずるそんじゃ》の像を撫《な》ぜ、幼い頃この小石川の故里《ふるさと》で私が見馴れ聞馴れたいろいろな人たちは今頃どうしてしまったろうと、そぞろ当時の事を思い返さずにはいられない。
 そもそも私に向って、母親と乳母《うば》とが話す桃太郎や花咲爺《はなさかじじい》の物語の外に、最初のロマンチズムを伝えてくれたものは、この大黒様の縁日《えんにち》に欠かさず出て来たカラクリの見世物《みせもの》と辻講釈《つじこうしゃく》の爺さんとであった。
 二人は何処から出て来るのか無論私は知らない。しかし私がこの世に生れて初めて縁日というものを知ってから、その後《ご》小石川を去る時分までも二人の爺は油烟《ゆえん》の灯《あかり》の中に幾年たっても変らないその顔を見せていた。それ故あるいは今でも同じ甲子《きのえね》の夜《よ》には同じ場所に出て来るかも知れない。
 カラクリの爺は眼のくさった元気のない男で、盲目の歌うような物悲しい声で、「本郷駒込吉祥寺八百屋《ほんごうこまごめきちじょうじやおや》のお七はお小姓の吉三《きちざ》に惚れて……。」と節をつけて歌いながら、カラクリの絵板《えいた》につけた綱を引張っていたが、辻講釈の方は歯こそ抜けておれ眼付のこわい人の悪るそうな爺であった。よほど遠くから出て来るものと見え、いつでも鞋《わらじ》に脚半掛《きゃはんが》け尻端打《しりはしおり》という出立《いでたち》で、帰りの夜道の用心と思われる弓張提灯《ゆみはりちょうちん》を腰低く前で結んだ真田《さなだ》の三尺帯の尻《しり》ッぺたに差していた。縁日の人出が三人四人と次第にその周囲に集ると、爺さんは煙管《きせる》を啣《くわ》えて路傍《みちばた》に蹲踞《しゃが》んでいた腰を起し、カンテラに火をつけ、集る人々の顔をずいと見廻しながら、扇子《せんす》をパチリパチリと音させて、二、三度つづけ様に鼻から吸い込む啖唾《たんつば》を音高く地面へ吐く。すると始めは極く低い皺嗄《しわが》れた声が次第次第に専門的な雄弁に代って行く。
「……あれえッという女の悲鳴。こなたは三本木《さんぼんぎ》の松五郎《まつごろう》、賭場《とば》の帰りの一杯機嫌、真暗な松並木をぶらぶらとやって参ります……」
 話が興味の中心に近《ちかづ》いて来ると、いつでも爺さんは突然調子を変え、思いもかけない無用なチャリを入れてそれをば聞手の群集から金を集める前提にするのであるが、物馴れた敏捷な聞手は早くも気勢を洞察して、半開《はんびら》きにした爺さんの扇子がその鼻先へと差出されぬ中《うち》にばらばら逃げてしまう。すると爺さんは逃げ後《おく》れたまま立っている人たちへ面当《つらあて》がましく、「彼奴《あいつ》らア人間はお飯《まんま》喰わねえでも生きてるもんだと思っていやがらア。昼鳶《ひるとんび》の持逃《もちにげ》野郎奴。」なぞと当意即妙の毒舌を振って人々を笑わせるかと思うと罪のない子供が知らず知らずに前の方へ押出て来るのを、また何とかいって叱りつけ自分も可笑《おかし》そうに笑っては例の啖唾を吐くのであった。
 縁日の事からもう一人私の記憶に浮び出《いづ》るものは、富坂下《とみざかした》の菎蒻閻魔《こんにゃくえんま》の近所に住んでいたとかいう瞽女《ごぜ》である。物乞《ものごい》をするために急に三味線を弾《ひ》き初めたものと見えて、年は十五、六にもなるらしい大きな身体《ずうたい》をしながら、カンテラを点《とも》した薦《ござ》の上に坐って調子もカン処《どこ》も合わない「一ツとや」を一晩中休みなしに弾いていた。その様子が可笑しいというので、縁日を歩く人は大抵立止っては銭を投げてやった。二年三年とたつ中《うち》に瞽女は立派な専門
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