伝通院
永井荷風

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)賑《にぎやか》な

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|日清《にっしん》戦争

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ちゃん[#「ちゃん」に傍点]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔De'mocratie〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−

 われわれはいかにするともおのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。
 もしそれが賑《にぎやか》な都会の中央であったならば、われわれは無限の光栄に包まれ感謝の涙にその眼を曇らして、一国の繁華を代表する偉大の背景を打目戍《うちまも》るであろう。もしまたそれが見る影もない痩村《やせむら》の端《はず》れであったなら、われわれはかえって底知れぬ懐《なつか》しさと同時に悲しさ愛らしさを感ずるであろう。
 進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私《わたし》は都会の北方を限る小石川《こいしかわ》の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。
 十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る由《よし》もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町《いいだまち》に家を借り、それから丁度|日清《にっしん》戦争の始まる頃には更に一番町《いちばんちょう》へ引移った。今の大久保《おおくぼ》に地面を買われたのはずっと後《のち》の事である。
 私は飯田町や一番町やまたは新しい大久保の家《いえ》から、何かの用事で小石川の高台を通り過る折にはまだ二十歳《はたち》にもならぬ学生の裏若《うらわか》い心の底にも、何《なに》とはなく、いわば興亡常なき支那の歴代史を通読した時のような淋しく物哀れに夢見る如き心持を覚えるのであった。殊に自分が呱々《ここ》の声を上げた旧宅の門前を過ぎ、その細密《こまか》い枝振りの一条《ひとすじ》一条にまでちゃん[#「ちゃん」に傍点]と見覚えのある植込《うえごみ》の梢《こずえ》を越して屋敷の屋根を窺い見る時、私は父の名札《なふだ》の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入《すすみい》る事ができなくなったのかと思うと、なお更にもう一度あの悪戯書《いたずらがき》で塗り尽された部屋の壁、その窓下へ掘った金魚の池なぞあらゆる稚時《おさなどき》の古跡が尋ねて見たく、現在|其処《そこ》に住んでいる新しい主人の事を心憎く思わねばならなかった。
 私の住んでいる時分から家は随分古かった。それ故、間もなく新しい主人は門の塀まで改築してしまった事を私は知っている。乃《すなわ》ち私の稚時の古跡はもう影も形もなくこの浮世からは湮滅《いんめつ》してしまったのだ……

        *

 寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以てその所在の土地に動しがたい或る特色を生ぜしめる。巴里《パリー》にノオトル・ダアムがある。浅草《あさくさ》に観音堂《かんのんどう》がある。それと同じように、私の生れた小石川をば(少くとも私の心だけには)あくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの伝通院《でんずういん》である。滅びた江戸時代には芝の増上寺《ぞうじょうじ》、上野の寛永寺《かんえいじ》と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である。
 伝通院の古刹《こさつ》は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、水道端《すいどうばた》から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。東の方は本郷《ほんごう》と相対して富坂《とみざか》をひかえ、北は氷川《ひかわ》の森を望んで極楽水《ごくらくみず》へと下《くだ》って行き、西は丘陵の延長が鐘の音《ね》で名高い目白台《めじろだい》から、『忠臣蔵』で知らぬものはない高田《たかた》の馬場《ばば》へと続いている。
 この地勢と同じように、私の幼い時の幸福なる記憶もこの伝通院の古刹を中心として、常にその周囲を離れぬのである。
 諸君は私が伝通院の焼失を聞いていかなる絶望に沈められたかを想像せらるるであろう。外国から帰って来てまだ間もない頃の事確か十一月の曇った寒い日であった。ふと小石川の事を思出して、午後《ひるすぎ》に一人幾年間見なかった伝通院を尋《たずね》た事があった。近所の町は見違えるほど変っていたが古寺《ふるでら》の境内《けいだい》ばかりは昔のままに残されていた。私は所定めず切貼《きりばり》した本堂の古障子《ふるしょうじ》が欄干《らんかん》の腐った廊下に添うて
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング