くに立つてゐる建物の三階の一室を借りて営業してゐる或商事会社の雇用人で。男の方は名を友田信三。年は三十四五、社長の親戚に当るばかりか、社員の中でも古顔の一人であるが、女の方は半年ほど前に新聞の広告を見て志願書を出して雇つて貰つたばかり。年は二十四五。戦災前長年人形町の表通に雑貨店を出してゐた商家の娘で、災後の現在は新小岩へ移転し女学校を出た後、日本橋通の或商店に雇はれ売子になつてゐた事があつた。人並よりは小柄な身に簡易な洋装をした姿。年よりはずツと若く見えるが上に町育ちの言葉使ひやら愛嬌やら、どこか男の目を牽く艶かしさが見えるので、初めて見た其時から友田は何とかしてやりたいやうな気になつてゐた。
 女は会社がひけると毎日歩いて土橋を渡り新橋の駅から国鉄の電車に乗り、秋葉原で総武線に乗り替へて行く道順をも、友田は人知れず其後をつけ、或日にはその住んでゐる親の店の近くまで行つたこともあつた。其間にも折があつたら手でも握つてやらうと思ひながら空しく一ト月あまりを過した或日曜日の午後である。友田は偶然浅草公園映画町の人中で、これも唯一人歩いてゐる彼女に出会つた。
 二人は互にアラと言つたなり驚いて其場に佇立《たゝず》んだ。やがて言訳らしく女が何か言出さうとするのを、友田は聞えぬ振で、映画館の入場券を売る傍の窓口へ歩み寄り、手早く切符を買ひ取り、「民子さん。鳥渡見て行きませう。どんな写真だか分りませんが、これ、あなたの切符。」
「まアどうも、すみません。」とこの場合厭とも言へず、女は切符を受取り男と並んで内へ這入ると、天気の好い日曜日の事で、場内は大入満員の好景気。出入の戸口から場内左右の壁際まで、席のあくのを待つ看客が押合ふやうに立込んでゐるため、正面舞台の映画は人の頭に遮られて能くは見えない。
「どうです。見えますか。もつと此方へお寄んなさい。」と友田は女の手を取らぬばかり寄り添つて人中へ割込むと、絶えず後方《うしろ》から押して来る人波に押出されて、男よりも先に女の方から男の洋服の袖口につかまる始末。二人は互に寄りかゝるやうに身を寄せ合ひ、知らず知らず呼吸《いき》の触れ合ふ程顔を近づけてしまつたが、する中映画が変つたと見えて、場内が明くなり、彼方此方《あちこち》の椅子から立つ人が出来たので、二人は思ひがけなく近いところに空いた席を見つけてその後《あと》に腰をおろした。物売
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