町中の月
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)灯火《とうくわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小説|春暁八幡佳年《しゆんげうはちまんがね》
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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たま/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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灯火《とうくわ》のつきはじめるころ、銀座尾張町の四辻で電車を降《おり》ると、夕方の澄みわたつた空は、真直な広い道路に遮られるものがないので、時々まんまるな月が見渡す建物の上に、少し黄ばんだ色をして、大きく浮んでゐるのを見ることがある。
時間と季節とによつて、月は低く三越の建物の横手に見えることもある。或はずつと高く歌舞伎座の上、或は猶高く、東京劇場の塔の上にかゝつてゐることもある。
街路の上はこの時間には、夏冬とも鉛色した塵埃に籠められ、一二町先は灯火の外何物も能くは見えないほど濛々としてゐる。その為でもあるか、街上の人通りを見ると、誰一人明月の昇りかけてゐるのに気のつくものはないらしい。
服部時計店の店硝子《みせがらす》を後《うしろ》に、その欄干《てすり》に倚りかゝつて、往徠《ゆきき》の人を見てゐる男や女は幾人もあるが、それは友達か何かを待ち合してゐるものらしく、明月の次第に高く昇るのを見てゐるのではない。車留《くるまどめ》の信号の色が替るのを待ち兼ねて、通行の車と人とは、前後に列を乱して休みもなく走り動いてゐる。
わたくしがたま/\静に月を観やうといふやうな――それも成るべく河の水の流れてゐるあたりへ行つて眺めやうと云ふ心持になるのは、大抵尾張町の空に、月の昇りかけてゐるのを見る夕方である。
東京の気候は十二月に入《はい》ると、風のない晴天がつゞいて、寒気も却て初冬のころよりも凌ぎよくなる。日は一日ごとに短くなり、町の灯火は四時ごろになると、早くも立迷ふ夕靄の底からきらめき初める。
わたくしはいつも此時間に散歩を兼ねて、日常の必要品を購ひに銀座へ出る。それ故明月を観るため、築地から越前堀あたりまで歩くのも年の中《うち》で冬至の前後が最も多いことになるのである。
むかしは銀座通の東裏《ひがしうら》を流れてゐる三十間堀の河岸も、月を見ながら歩けるほど静であつたが、今は自動車と酔漢とを避《よ》けるわづらはしさに堪へられない。築地川は劇場の灯火が月を見るには明るすぎる。鬨《かちどき》のわたし場《ば》は近年架橋の工事中で、近寄ることもできない。明石町の真中を流れてゐた堀割は、その両岸に茂つた柳の並木と、沿岸の家の樹木とに、居留地のむかしを思出させた処であつたが、今は埋立てられて、乗合自動車の往復する広い道路となつた。
こんな有様なので、わたくしが月を見ながら歩く道順は、佃のわたし場から湊町の河岸に沿ひ、やがて稲荷橋から其向ひの南高橋をわたり、越前堀の物揚場《ものあげば》に出る。
稲荷橋は八丁堀の流が海に入るところ。鉄砲洲稲荷の傍《かたはら》にかゝつてゐるので、その名を得たのであらう。この河口《かはぐち》は江戸時代から大きな船の碇泊した港で、今日でも東京湾汽船会社の桟橋と、船客の待合所とが設けられ、大嶋行の汽船がこの河筋ではあたりを圧倒するほど偉大な船体と檣と烟突とを空中に聳《そびや》かしてゐる。道路は汽船の発着する間際を除けば、夜などは人通りがないくらゐで、立ちつゞく倉庫のあひだに、わびし気な宿屋が薄暗い灯《あかり》を出してゐるばかり。外から見た様子では、泊りの客も多くはないらしい。これに反して、水の上は荷船や運送船の数も知れず、日の暮れかゝるころには、それ等の船ごとに舷《ふなばた》で焚くコークスの焔が、かすみ渡る夕靄のあひだに、遠く近く閃き動くさま、名所絵に見る白魚舟の篝火を思起させる。
わたくしは稲荷橋に来て、その欄干に身をよせると、おのづからむかし深川へ通つた猪牙舟《ちよきぶね》を想像し、つゞいて為永春水の小説|春暁八幡佳年《しゆんげうはちまんがね》の一節を憶ひだすのである。それは月の冴渡つた冬の夜ふけ、深川がへりの若檀那が、馴染《なじみ》の船頭に猪牙舟を漕がせ、永代橋の下をくゞる時身投の娘を救上げ、稲荷橋へ来かゝると云ふところである。春水は現代の作家の如く意識して、その小説中に河上の風景を描写したものではないが、然し対話の間に歴々として能くその情景を現してゐる事は、さすがに老練の筆と云はなくてはならない。わたくしは之を抄録したい。
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客弥三郎「ナントいゝ月夜ぢやアねへか。」
船頭兼「左様《さやう》サ歌でもおよみなせへまし。」
客「歌
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