どころか寝言も言へねへ。」
船頭「左様《さう》でもごぜへますめへ。秀八と寝言《ねごと》の手がありやアしませんかね。」
客「大違ひ/\。」
船「御簾《みす》になる竹の産着《うぶぎ》や皮草履かね。」
客「大分風流めかすノ。そりやアいゝ。船はどこにある。」
船「ソレさつき木場から直に参《めへ》りましたから八幡の裏堀にもやつてあります。」
客「ムヽ左様《さう》だつけの。」(ト言ひながら船にいたる。)
船「サアお乗ンなせへまし。お手をとりませうか。」
客「サアよし/\御苦労ながらやつてくんな。」
 ………中略………
客「トキニこゝは閻魔堂橋あたりか。」
船「どういたして。モウ油堀でごぜへます。」
客「たいさう。早いのう。然し是からは大川の乗切《のつきり》が太義《たいぎ》だのう。」
船「ナニまだ今の内は宜《よう》ごぜへますが、雪の降る晩なんざア実に泣くやうでごぜへますぜ。」
客「左様《さう》だらうヨのウ。」
船「早く稲荷橋まで乗込みてへもんだ。ヱ、モシ、旦那。思ひの外に夜がふけましたねへ。何だか今時分になると薄気味がわるウごぜへますぜ。」
客「浪へ月がうつるので、きら/\してものすごい様《やう》だの。」
船「おつなもんだ。夜と昼ぢやアたいさうに川の景色が違ひますぜ。」
客「闇の夜より月夜の方がこわい様だぜ。おやもう永代橋だの。」
船「御覧《ごらう》じまし。昼間だと橋の上の足音でドン/\そう/″\しうごぜへますが、夜はアレ水の流れる音がすごく聞へますぜ。ドレ/\思ひきつて大間《おほま》を抜けやう。」
 ……此時いづれの御屋敷にや八ツの時廻り河風にさそひてカチカチカチ。
[#ここで字下げ終わり]

 稲荷橋をわたると、筋違《すぢか》ひに電車の通る南高橋がかゝつてゐる。電車通りの灯火を避《よ》けて、河岸づたひに歩みを運ぶと、この辺《へん》は倉庫と運送問屋の外殆ど他の商店はないので、日が暮れると昼中の騒しさとは打つて変つて人通りもなく貨物自動車も通らない。石川島と向ひ合ひになつた岸には栄橋と、一の橋とがかゝつてゐて、水際に渡海神社といふ小さな祠《ほこら》がある。永代橋に近くなると、宏大な三菱倉庫が鉄板の戸口につけた薄暗い灯影《とうえい》で、却つてあたりを物淋しくしてゐる。そして倉庫の前の道路は、すぐさま広い桟橋につゞくので、あたりは空地でも見るやうにひろ/″\としてゐる。
 わたくしはいつも此桟橋のはづれまで出て、太い杭《くひ》に腰をかけ、ぴた/\寄せて来る上潮の音をきゝながら月を見る……。



底本:「日本の名随筆58 月」作品社
   1987(昭和62)年8月25日第1刷発行
   1999(平成11)年4月30日第10刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一七巻」岩波書店
   1964(昭和39)年7月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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