よしいく》、芳年《よしとし》の如き浮世絵師が盛《さかん》に其《その》製作を刊行したのも自然の趨勢であらう。支那画家の一派も亦《また》時としては柳橋《やなぎばし》や山谷堀《さんやぼり》辺りの風景をば、恰《あたか》も水の多い南部支那の風景でもスケツチしたやうに全く支那化して描《ゑが》いてゐるが、これは当時の漢詩人が向島《むこうじま》を夢香洲[#「夢香洲」に傍点]、不忍池《しのばずのいけ》を小西湖[#「小西湖」に傍点]と呼んだと同じく、日本の社会の一面には何時《いつ》の時代にもそれ/″\、外国崇拝の思想の流れてゐた事を証明する材料の一ツとして、他日別に論究されべき問題であらう。
自分は虫干の今日《けふ》もまた最も興味深く古河黙阿弥の著作を読返した。脚本のトガキだけを書き直して其儘《そのまゝ》絵入の草双紙にしたもの、又は狂言の筋書役者の芸評等によつて、自分は黙阿弥翁が脚本作家たる一面に於て、忠実に其の時代の風俗を写生してゐることを喜ぶのである。同時に又、作者が勧善懲悪の名の下《もと》に或は作劇の組織を複雑ならしめんが為めに描《ゑが》き出した多種類の悪徳及び殺人の光景が、写実的なると空想的なる
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