やうは、亭主の為めと夕暮の、涼風《すずかぜ》慕ふ夏場をかけ、湯治場《たうぢば》近き小田原《をだはら》で、宿場稼《しゆくばかせ》ぎの旅芸者、知らぬ土地故《ゆゑ》応頼《おうらい》の、転ぶ噂もきのふと過ぎ、今日《けふ》迄すましてゐられたが、東京にゐた其の頃は、毎度いろはの新聞で、仮名垣《かながき》さんに叩かれても、のんこのしやアで押通し、山猫《やまねこ》おきつと名を取つた、尻尾《しつぽ》の裂けた気まぐれ者さ。」なぞ云つてゐるのは既に好劇家の暗記してゐる処であらう。
自分は黙阿弥劇の毒婦と又|白浪物《しらなみもの》の舞台面から「悪」の芸術美を感受する場合、いつもボオドレエルの詩集 F'leurs du Mal を比較せねばならぬと思ふ。無論両者の間には東西文明の相違せる色調に従つて、思想上の価値に高下の差別はあらうけれど、両者ともにデカダンス芸術の極致を示してゐる事だけは同じである。
審美学者ギヨオは有名なる其の著述「社会学上より見たる芸術」の巻末に於て犯罪者の心理に関するロンブロゾ博士《はくし》の所論を引用して、悪人は一種恐しい虚栄心を持つてゐるもので、単に世間を恐怖させるため、或は世間
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