蟲の聲
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)門《かど》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)或日|驟雨《ゆふだち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)はら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 東京の町に生れて、そして幾十年といふ長い月日をこゝに送つた………。
 今日まで日々の生活について、何のめづらしさをも懷しさをも感じさせなかつた物の音や物の色が、月日の過ぎゆくうちにいつともなく一ツ一ツ消去つて、遂に二度とふたゝび見ることも聞くこともできないと云ふことが、はつきり意識せられる時が來る。すると、こゝに初めて綿々として盡きない情緒が湧起つて來る――別れて後むかしの戀を思返すやうな心持である。
 ふけそめる夏の夜に橋板を踏む下駄の音。油紙で張つた雨傘に門《かど》の時雨《しぐれ》のはら/\と降りかゝる響。夕月をかすめて啼過る雁の聲。短夜の夢にふと聞く時鳥《ほとゝぎす》の聲。雨の夕方渡場の船を呼ぶ人の聲。夜網を投込む水音。荷船の舵の響。それ等の音響とそれに伴ふ情景とが吾々の記憶から跡方もなく消え去つてから、歳月は既に何十年過ぎてゐるであらう。
 季節のかはり行くごとに、その季節に必要な品物を賣りに來た行商人の聲が、東京といふ此都會の生活に固有の情趣を帶びさせたのも、今は老朽ちた人々の語草に殘されてゐるばかりである。
 時代は過ぎ思想は代り風俗は一變してしまつた今日、この都會に生れ、この都會に老行くものどもが、これから先、その死に至る時まで、むかしに變らぬ情趣を味ひ得るものをさがし求めたなら、果して能く何を得るのであらう。
 樹木の多い郊外の庭にも、鶯はもう稀に來て鳴くのみである。雀の軒近く囀るのを喧《かしま》しく思ふやうな日も一日一日と少くなつて行くではないか。わたくしは何の爲に突然こんな事を書きはじめたのか。それは梵鐘の聲さへ二三年前から聞き得なくなつた事を、ふと思返して、一年は一年より更に烈しく、わたくしは蝉と蟋蟀《こほろぎ》の庭に鳴くのを待ちわびるやうになつた。――何故に待ちわびるやうになつたか、其理由をこゝに言ひたいと思つたからである。昭和といふ年も數へて早くも十八年になつた今日、東京の生活からむかしのまゝなる懷しい音響を、われ/\の耳に傳へてくれるものは、かのオシイツク/\と蟋蟀の鳴く聲ばかりであらう。蝉も蟋蟀も、事によつては雁や時鳥と同じやうに、やがて遠からず前の世の形見になつてしまふのかも知れない。
 或年淺草公園の或劇場の稽古に夜を明しての歸りみち、わたくしは昨夜のまゝに寐靜つた仲店を歩み過ぎた時、敷石を踏む跫音さへ打消すほど、あたり一面に鳴きしきる蟋蟀の聲をきいて、路に落ちた寶石を拾つたよりも嬉しく思つたことがあつた。それも數へればもう七八年むかしである。
 毎年東京の町に秋のおとづれるのは八月の七八日頃である。今年もいよ/\秋になつたと知るが否や、わたくしは今日か明日かと、夜毎に蟋蟀の初音《はつね》を待つのが例である。然しこの年頃の經驗によると、蟋蟀の聲の人の耳に達するのは、夕日の梢に初めてオシイツク/\の聲をきいてから、遲い時には十日十五日くらゐ待たねばならない。オシイツク/\も初の中はさほどに心細く、さほどにせはしなく鳴きしきりはしない。彼方の木の梢で一聲短く鳴いたなり、默つてしまふと、やがて此方《こなた》の梢から樣子でも窺ふやうに、挨拶でもしあふやうに、別の蝉がゆるやかに鳴くのである。
 この時分には秋になつたといつても、夕日の烈しさは昨日となつた夏にかはらず、日の短さも目にはたゝない。凌霄花《のうぜんかづら》はますます赤く咲きみだれ、夾竹桃の蕾は後から後からと綻びては散つて行く。百日紅は依然として盛りの最中《もなか》である。そして夕風のぱつたり凪ぐやうな晩には、暑さは却て眞夏よりも烈しく、夜ふけの空にばかり、稍目立つて見え出す銀河の影を仰いでも、往々にして眠りがたい蒸暑《むしあつさ》に襲はれることがある。然し日は一日一日と過ぎて行つて、或日|驟雨《ゆふだち》が晴れそこなつたまゝ、夜になつても降りつゞくやうな事でもあると、今まで逞しく立ちそびえてゐた向日葵《ひまわり》の下葉が、忽ち黄ばみ、いかにも重さうな其花が俯向いてしまつたまゝ、起き直らうともしない。糸瓜や南瓜の舒び放題に舒びた蔓の先に咲く花が、一ッ一ツ小さくなり、その數もめつきり少くなるのが目につきはじめる。それと共に、一雨過ぎた後、霽れわたる空の青さは昨日とは全く
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