ちがつて、濃く深く澄みわたり、時には大空をなかば蔽ひかくす程な雲の一團が、風のない日にも折重つて移動して行くのを見るであらう。それに伴ひ玉蜀黍の茂つた葉の先やら、熟した其實を包む髯が絶えず動き戰《そよ》いでゐて、大きな蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《とんぼ》がそれにとまるかと見ればとまりかねて、飛んで行つたり飛んできたりしてゐる。一時《ひとしきり》夏のさかりには影をかくした蝶が再びひら/\ととびめぐる。蟷螂《かまきり》が母指《おやゆび》ほどの大きさになり、人の跫音をきゝつけ、逃るどころか、却て刃向ふやうな姿勢を取るのも、この時節である。
 夏の中毎夜夕涼に出あるいてゐた癖がついてゐるので、この時節になつても、夕飯をすますときまつて外へ出る。知る人の家をたづね、久しく會はなかつた舊友に出會つたりして、思ひの外に夜をふかすやうな事がある。すると、其のかへり道、夜ふけの風がいつともなく涼しくなつてゐて、帽子をかぶつた額際も汗ばまず、おのづと歩みも輕くなるのに心づき、いよ/\今年の秋もふけかけて來たことを思知つて、音もせぬ風の音をきかうとするであらう。
 わが家に辿りついて、机の上の燈火をつけると、その火影《ほかげ》もまた昨夜《ゆうべ》とは違ひ、俄に清く澄んでゐるやうな心持がする。夏の夜とは全くちがつた官覺のしめやかさに驚かされ、何といふわけもなく火影とその周圍《まわり》の物の影とが見詰められる。わたくしがその年の秋に初めて鳴出す蟋蟀の聲をききつけるのは、大抵かういふ思ひがけない瞬間からである。
 けれども、初めて聞く蟋蟀の鳴音はオシイツク/\と同じやうに、初めは直樣途切れて、そのまま翌日《あくるひ》の夜になつても聞かれないことがある。そして蟲の聲を待つ宵は三日四日と空しく過ぎて行く。夕暮はもう驚くばかり短くなつてゐる。オシイツク/\の聲は日にまし騷がしく忙《せは》しなく、あたりが全く暗くなつてしまふまで、後から後からと追ひかけるやうに鳴きつゞけてゐる。
 月が出る。月の光は夕日の反映が西の空から消え去らぬ中、早くも深夜に異らぬ光を放ち、どこからともなく漂つてくる木犀の薫が、柔《やはらか》で冷い絹のやうに人の肌を撫る。このしめやかな、云ふに云はれぬ肉と心との官覺は、目にも見えず耳にも聞えないものにまで、明かに秋らしい色調を帶びさせて來る。いつぞや初音を試みたなり默つてしまつた蟋蟀は、さう云ふ晩から再び鳴きはじめて、いよ/\自分達の時節が來たと云はぬばかり、夜ごと夜ごとに其聲を強くし其調子を高めて行く。
 二百十日が近くなつて、雨が多くなると、一雨ごとに蟲の聲は多くなる。ワグネルの音樂のやうに入り亂れて湧立つ如く鳴きしきる。
 やがて時節は彼岸になる。十五夜の月見が年によつて彼岸の中日と同じになることもある。晝夜等分の頃が蟋蟀の合奏の最も調子が高く最も力のつよい其絶頂であらう。
 山の手では人の往來《ゆきゝ》のかなり激しい道のはたにも暗くならぬ中から、下町では路地の芥箱から夜通し微妙な秋の曲が放送せられる。道端や芥箱のみではない。蟋蟀の鳴音はやがて格子戸の内、風呂場や臺所のすみ/″\からも聞えて來るやうになるのである。朝夕の寒さに蟋蟀もまた夜遊びに馴れた放蕩兒の如く、身にしむ露時雨《つゆしぐれ》のつめたさに、家の内が戀しくなるのであらう。
 何といふわけもなく、いろ/\の事が胸の底から浮んで來る時節である。冬ぢかい秋の日の、どんよりと曇つたまゝ、雨にもならず風もそよがず、盡きない黄昏のやうに沈靜する晝過ほど、追憶と瞑想とに適した時はあるまい。日頃は忘れてゐるボードレールやヴヱルレーヌの詩篇が身を刺すやうにはつきり思返されて來る。萎《しを》れかけた草の葉かげから聞える晝間の蟲の聲は、正しく「秋のヰヨロンのすゝり泣する調《しらべ》」であらう。
 枕に就いてからも眠られぬ夜はまた更に、蟋蟀の鳴く音を、戀人のさゝやきよりも懷しくいとしく思はなければなるまい。それは眠られぬ人に向つて、いかほど啼いたからとて、身にあまる生命の切なさと悲しさとが消去るものではない。蟋蟀は啼くために生れて來たその生命《いのち》のかなしさを、唯わけも知らず歎いてゐるのだと、知れざる言葉を以て、生命《せいめい》の苦惱と悲哀とを訴へるやうに思はれるからだ。
 十三夜の月は次第に缺けて闇の夜がつゞく。人は既に袷をきてゐる。雨の夜には火鉢に火をおこす者もある。もう冬である。
 それまでも生き殘つてゐた蟋蟀が、いよ/\その年の最終の歌をうたひ納める時、西の方から吹きつけて來る風が木の葉をちらす。菊よりも早く石蕗《つは》の花がさき、茶の花が匂ふ………。



底本:「日本の名随筆19 虫」作品社
   1984(昭和59)年5月25日第1刷発行
   1997(平成9
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