《たわらまち》の方へ抜ける狭い横町であったがためだという話である。観客から贔屓《ひいき》の芸人に贈る薬玉《くすだま》や花環《はなわ》をつくる造花師が入谷《いりや》に住んでいた。この人も三月九日の夜に死んだ。初め女房や娘と共に大通りへ逃げたが家の焼けるまでにはまだ間があろうと、取残した荷物を一ツなりとも多く持出そうと立戻ったなり返って来なかったという。
 浅草公園はいつになったら昔の繁華にかえることができるのであろう。観音堂が一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》の名所絵に見るような旧観に復する日は恐《おそら》くもう来ないのかも知れない。
 昭和十二年、わたくしが初めてオペラ館や常盤座《ときわざ》の人たちと心易くなった時、既に震災前の公園や凌雲閣《りょううんかく》の事を知っている人は数えるほどしかいなかった。昭和の世の人たちには大正時代の公園はもう忘れられていた。その頃オペラ館の舞台で観客から喝采《かっさい》せられていた人たちの大半は震災後に東京へ出て来て成功した地方の人のみであった。しかしこの時代も今はまた忽《たちま》ちにしてむかしとなったのである。平和の克復したこの後の時代にジャズ模倣の名手として迎えらるべき芸人の花形は朱塗《しゅぬり》の観音堂を見たことのないものばかりになるのである。時代は水の流れるように断え間なく変って行く。人はその生命の終らぬ中《うち》から早く忘れられて行く。その事に思い至れば、生もまたその淋しい事において、甚しく死と変りがないのであろう。

        ○

 オペラ館の楽屋口に久しく風呂番《ふろばん》をしていた爺さんがいた。三月九日の夜に死んだか、無事であったか、その後興行町の話が出ても、誰一人この風呂番の事を口にするものがない。彼の存在は既に生きている時から誰にも認められていなかったのだ。
 その時分、踊子たちの話によると、家もあった、おかみさんもあった。家は馬道《うまみち》辺で二階を人に貸して家賃の足しにしていた。おかみさんはまだ婆さんというほどではなく、案外|垢抜《あかぬ》けのした小柄の女で、上野|広小路《ひろこうじ》にあった映画館の案内人をしているとの事であった。爺さんはいつでも手拭を後鉢巻《うしろはちまき》に結んでいるので、禿頭《はげあたま》か白髪頭《しらがあたま》か、それも楽屋中知るものはない。腰も曲ってはいなかったが、手足は痩せ細り、眼鏡をかけた皺の多い肉の落ちた顔ばかりを見ると、もう六十を越していたようにも思われた。夏冬ともシャツにズボンをはいているばかり。何をしていたものの成れの果やら、知ろうとする人も、聞こうとする人も無論なかったが、さして品のわるい顔立ではなかったので、ごろつきでも遊び人でもなく、案外堅気の商人であったのかも知れない。
 オペラ館の風呂場は楽屋口のすぐ側にあった。楽屋口には出入する人たちがいつも立談《たちばなし》をしていた。他の芝居へ出ているものや、地方興行から帰って来た人たちが、内のものを呼び出して、出入口の戸や壁に倚《よ》りかかって話をしている事もあるし、時侯が暑くなると舞台で使う腰掛を持出して、夜昼となく大勢|交《かわ》る交《がわ》るに腰をかけて、笑い興じていることもあったが、しかし爺さんがその仲間に入って話をしている事は滅多になかった。この腰掛で若い者が踊子と戯れ騒ぐのさえ、爺さんは見馴れているせいか、何が面白いのだと言わぬばかりの顔附で見向きもしなかった。
 寒くなると、爺さんは下駄棚のかげになった狭い通路の壁際で股火《またび》をしながら居睡《いねむり》をしているので、外からも、内からも、殆ど人の目につかない事さえあった。
 或年花の咲く頃であったろう。わたくしは爺さんが何処から持って来たものか、そぎ竹を丹念に細く削って鳥籠をつくっているのを見たことがあった。よく見る町の理髪師が水鉢に金魚を飼ったり、提燈屋《ちょうちんや》が箱庭をつくって店先へ飾ったりするような趣味を、この爺さんも持っていたらしい。爺さんはその言葉遣いや様子合《ようすあい》から下町に生れ育ったことを知らしていた。それにしても、わたくしは一度もこの爺さんの笑った顔を見たことがなかった。人は落魄《らくはく》して、窮困の中に年をとって行くと、まず先に笑うことから忘れて行くものかも知れない。
 戦争が長びいて、瓦斯《ガス》もコークスも使えなくなって、楽屋の風呂が用をなさなくなると、ほどもなく、爺さんは解雇されたと見えて、楽屋口から影の薄い姿を消し、掃除は先の切れた箒《ほうき》で、新顔の婆さんがするようになった。

        ○

 戦後に逢う二度目の秋も忽ち末近くなって来た。去年の秋はこれを岡山の西郊に迎え、その尽るのを熱海に送った。今年|下総葛飾《しもうさかつしか》の田園にわたくしは
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