、わたくしは何か口ざむしい気がして、夜半過ぎまで起きている食物屋を栄子にきいた事があった。栄子は近所に住んでいる踊子仲間の二、三人をもさそってくれて、わたくしを吉原の角町《すみちょう》、稲本屋の向側の路地にある「すみれ」という茶漬飯屋まで案内してくれたことがあった。水道尻の方から寝静った廓《くるわ》へ入ったので、角町へ曲るまでに仲《なか》の町《ちょう》を歩みすぎた時、引手茶屋《ひきてぢゃや》のくぐり戸から出て来た二人の芸者とすれちがいになった。芸者の一人と踊子の栄子とは互に顔を見て軽く目で会釈《えしゃく》をしたなり行きすぎた。その様子が双方とも何となく気まりが悪いというように、また話がしたいが何か遠慮することがあるとでもいうように見受けられた。角町の角をまがりかけた時、芸者の事をきくと、栄子は富士前小学校の同級生で、引手茶屋何々|家《や》の娘だと答えたが、その言葉の中に栄子は芸者を芸者|衆《しゅ》といい、踊子の自分よりも芸者衆の方が一だん女としての地位が上であるような言方をした。これに依って、わたくしは栄子が遊廓に接近した陋巷《ろうこう》に生れ育った事を知り、また廓内の女たちがその周囲のものから一種の尊敬を以て見られていた江戸時代からの古い伝統が、昭和十三、四年のその日までまだ滅びずに残っていた事を確めた。意外の発見である。殆ど思議すべからざる事実に逢着し得たのである。しかしこの伝統もまた三月九日の夜を名残りとして今は全く湮滅《いんめつ》してしまったのであろう。
○
この夜吉原の深夜に見聞した事の中には、今なお忘れ得ぬものが少くなかった。
すみれという店は土間を間にしてその左右に畳が敷いてあるので、坐れもすれば腰をかけたままでも飲み食いができるようにしてあった。栄子たちが志留粉《しるこ》だの雑煮《ぞうに》だの饂飩《うどん》なんどを幾杯となくお代りをしている間に、たしか暖簾《のれん》の下げてあった入口から這入《はい》って来て、腰をかけて酒肴《さけさかな》をいいつけた一人の客があった。大柄の男で年は五十余りとも見える。頭を綺麗に剃《そ》り小紋《こもん》の羽織に小紋の小袖《こそで》の裾《すそ》を端折《はしお》り、紺地羽二重《こんじはぶたえ》の股引《ももひき》、白足袋《しろたび》に雪駄《せった》をはき、襟《えり》の合せ目をゆるやかに、ふくらました懐《ふところ》から大きな紙入《かみいれ》の端を見せた着物の着こなし、現代にはもう何処へ行っても容易には見られない風采である。歌舞伎芝居の楽屋などにも、こういう着物の着こなしをするものは、明治の時代の末あたりから既に見られなくなっていた。わたくしは仲の町の芸人にはあまり知合いがないが、察するところ、この土地にはその名を知られた師匠株の幇間《ほうかん》であろうと思った。
この男は見て見ぬように踊子たちの姿と、物食う様子とを、楽し気に見やりながら静かに手酌《てじゃく》の盃《さかずき》を傾けていた。踊子の洋装と化粧の仕方を見ても、更に嫌悪を催す様子もなく、かえって老年のわたくしがいつも感じているような興味を、同じように感じているものらしく、それとなくわたくしと顔を見合せるたびたび、微笑を漏したいのを互に強いて耐《こら》えるような風にも見られるのであった。思うにこの老幇間もわたくしと同じく、時世と風俗との変遷に対して、都会の人の誰もが抱いているような好奇心と哀愁とを、その胸中に秘していたのだろう。
暖簾外の女郎屋は表口の燈火を消しているので、妓夫《ぎゆう》の声も女の声も、歩み過る客の足音と共に途絶《とだ》えたまま、廓中は寝静ってタキシの響も聞えない。引過《ひけすぎ》のこの静けさを幸いといわぬばかり、近くの横町で、新内語《しんないかた》りが何やら語りはじめたのが、幾とし月聞き馴れたものながら、時代を超越してあたりを昔の世に引き戻した。頭を剃ったパッチばきの幇間の態度がいかにもその処を得たように見えはじめた。わたくしは旧習に晏如《あんじょ》としている人たちに対する軽い羨望《せんぼう》嫉妬《しっと》をさえ感じないわけには行かなかった。
三月九日の火は、事によるとこの昔めいた坊主頭の年寄をも、廓と共に灰にしてしまったかも知れない。
栄子と共にその夜すみれの店で物を食べた踊子の中の一人はほどなく浅草を去って名古屋に、一人は札幌に行った話をきいた。栄子はその後万才なにがしの女房になって、廓外《くるわそと》の路地にはいないような噂を耳にした。わたくしは栄子が父母と共にあの世へ行かず、娑婆《しゃば》に居残っている事を心から祈っている。
大道具の頭《かしら》の外に、浅草では作曲家S氏とわたくしの作った歌劇『葛飾情話』演奏の際、ピアノをひいていた人も死んだそうである。その家は公園から田原町
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