人の身を投込む………。回想は歓喜と愁歎との両面を持つてゐる謎の女神であらう。
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七十になる日もだん/\近くなつて来た。七十といふ醜い老人になるまで、わたくしは生きてゐなければならないのか知ら。そんな年まで生きてゐたくない。と云つて、今夜眼をつぶつて眠れば、それがこの世の終だとなつたなら、定めしわたくしは驚くだらう。悲しむだらう。
生きてゐたくもなければ、死にたくもない。この思ひが毎日毎夜、わたくしの心の中に出没してゐる雲の影である。わたくしの心は暗くもならず明くもならず、唯しんみりと黄昏《たそが》れて行く雪の日の空に似てゐる。
日は必ず沈み、日は必ず尽きる。死はやがて晩かれ早かれ来ねばならぬ。
生きてゐる中、わたくしの身に懐しかつたものはさびしさであつた。さびしさの在つたばかりにわたくしの生涯には薄いながらにも色彩があつた。死んだなら、死んでから後にも薄いながらに、わたくしは色彩がほしい。さう思ふと、生きてゐた時、その時、その場の恋をした女達、わかれた後忘れてしまつた女達に、また逢ふことの出来るのは瞑《くら》いあの世のさむしい河のほとりであるやうな気がしてくる。
あゝ、わたくしは死んでから後までも、生きてゐた時のやうに、逢へば別れる、わかれのさびしさに泣かねばならぬ人なのであらう………。
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薬研堀がまだ其のまゝ昔の江戸絵図にかいてあるやうに、両国橋の川しも、旧米沢町《もとよねざはちやう》の河岸まで通じてゐた時分である。東京名物の一銭蒸汽の桟橋につらなつて、浦安通ひの大きな外輪《そとわ》の汽船が、時には二艘も三艘も、別の桟橋につながれてゐた時分の事である。
わたくしは朝寐坊むらくといふ噺家《はなしか》の弟子になつて一年あまり、毎夜市中諸処の寄席に通つてゐた事があつた。その年正月の下半月《しもはんつき》、師匠の取席《とりせき》になつたのは、深川高橋の近くにあつた、常磐町《ときはちやう》の常磐亭であつた。
毎日午後に、下谷御徒町にゐた師匠むらくの家に行き、何やかやと、その家の用事を手つだひ、おそくも四時過には寄席の楽屋に行つてゐなければならない。その刻限になると、前座《ぜんざ》の坊主が楽屋に来るが否や、どこどん/\と楽屋の太鼓を叩きはじめる。表口では下足番の男がその前から通りがゝりの人を見て、入らつしやい、入らつしやいと腹の中か
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