、立迷う夕靄《ゆうもや》に水辺の町はわけても日の暮れやすく、道端の小家には灯がつき、路地の中からは干物の匂が湧き出で、木橋をわたる人の下駄《げた》の音が、場末の町のさびしさを伝えている。
 忘れもしない、その夜の大雪は、既にその日の夕方、両国の桟橋で一銭蒸汽を待っていた時、ぷいと横面《よこつら》を吹く川風に、灰のような細《こまか》い霰《あられ》がまじっていたくらいで、順番に楽屋入をする芸人たちの帽子や外套には、宵《よい》の口から白いものがついていた。九時半に打出し、車でかえる師匠を見送り、表通へ出た時には、あたりはもう真白で、人ッ子ひとり通りはしない。
 太鼓を叩く前座の坊主とは帰り道がちがうので、わたくしは毎夜|下座《げざ》の三味線をひく十六、七の娘――名は忘れてしまったが、立花家橘之助《たちばなやきつのすけ》の弟子で、家は佐竹ッ原だという――いつもこの娘と連立って安宅蔵《あたけぐら》の通を一ツ目に出て、両国橋をわたり、和泉橋際《いずみばしきわ》で別れ、わたくしはそれから一人とぼとぼ柳原から神田を通り過ぎて番町《ばんちょう》の親の家へ、音のしないように裏門から忍び込むのであった。
 
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