毎夜連れ立って、ふけそめる本所《ほんじょ》の町、寺と倉庫の多い寂しい道を行く時、案外暖く、月のいい晩もあった。溝川の小橋をわたりながら、鳴き過る雁の影を見送ることもあった。犬に吠えられたり、怪しげな男に後をつけられて、二人ともども息を切って走ったこともあった。道端に荷をおろしている食物売《たべものうり》の灯《あかり》を見つけ、汁粉《しるこ》、鍋焼饂飩《なべやきうどん》に空腹をいやし、大福餅や焼芋に懐手をあたためながら、両国橋をわたるのは殆《ほとんど》毎夜のことであった。しかしわたくしたち二人、二十一、二の男に十六、七の娘が更《ふ》け渡る夜の寒さと寂しさとに、おのずから身を摺《す》り寄せながら行くにもかかわらず、唯の一度も巡査に見咎《みとが》められたことがなかった。今日、その事を思返すだけでも、明治時代と大正以後の世の中との相違が知られる。その頃の世の中には猜疑《さいぎ》と羨怨《せんえん》の眼が今日ほど鋭くひかり輝いていなかったのである。
 その夜、わたくしと娘とはいつものように、いつもの道を行こうとしたが、二足三足踏み出すが早いか、雪は忽《たちま》ち下駄《げた》の歯にはさまる。風は傘を
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