出た。以上の諸名家に次《つ》いで大正時代の市井狭斜の風俗を記録する操觚者《そうこしゃ》の末に、たまたまわたくしの名が加えられたのは実に意外の光栄で、我事は既に終ったというような心持がする。
 正宗谷崎二君がわたくしの文を批判する態度は頗《すこぶる》寛大であって、ややもすれば称賛に過ぎたところが多い。これは知らず知らず友情の然らしめたためであろう。あるひは[#「あるひは」はママ]幾分奨励の意を寓して、晩年更に奮発一番すべしとの心であるやも知れない。わたくしは昭和改元の際年は知命に達していた。二君の好意を空《むな》しくせまいと思っても悲しい哉《かな》時は早や過去ったようである。強烈な電燈の光に照出される昭和の世相は老眼鏡のくもりをふいている間にどんどん変って行く。この頃、銀座通に柳の苗木《なえぎ》が植付《うえつ》けられた。この苗木のもとに立って、断髪洋装の女子と共に蓄音機の奏する出征の曲を聴いて感激を催す事は、鬢糸《びんし》禅榻《ぜんとう》の歎《たん》をなすものの能《よ》くすべき所ではない。巴里《パリー》には生きながら老作家をまつり込むアカデミイがある。江戸時代には死したる学者を葬る儒者捨
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