場があった。大正文学の遺老を捨てる山は何処にあるか……イヤこんな事を言っていると、わたくしは宛然《さながら》両君がいうところの「生活の落伍者」また「敗残の東京人」である。さればいかなる場合にも、わたくしは、有島、芥川の二氏の如く決然自殺をするような熱情家ではあるまい。数年来わたくしは宿痾《しゅくあ》に苦しめられて筆硯《ひっけん》を廃することもたびたびである。そして疾病《しっぺい》と老耄《ろうもう》とはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。自殺の勇断なき者を救う道はこの二者より外はない。老と病とは人生に倦《う》みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法は頗《すこぶる》妙《みょう》である。
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コノ稿ハ昭和七年三月三十日正宗白鳥君ノ論文ヲ読ミ燈下|匆々《そうそう》筆ヲ走ラセタ。ワガ旧作執筆ノ年代ニハ記憶ノ誤ガアルカモ知レナイ。好事家《こうずか》ハ宜《よろ》シク斎藤昌三氏ノ『現代日本文学大年表』ニ就イテコレヲ正シ給エトイウ。
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底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11
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