水 附渡船
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)仏蘭西人《フランスじん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)運河|沼沢《せうたく》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「求/(餮−殄)」、第4水準2−92−54]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)をり/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 仏蘭西人《フランスじん》ヱミル・マンユの著書都市美論の興味ある事は既にわが随筆「大窪《おほくぼ》だより」の中《うち》に述べて置いた。ヱミル・マンユは都市に対する水の美を論ずる一章に於て、広く世界各国の都市と其の河流《かりう》及び江湾の審美的関係より、更《さら》に進んで運河|沼沢《せうたく》噴水|橋梁《けうりやう》等《とう》の細節《さいせつ》に渉《わた》つて此《これ》を説き、猶《なほ》其の足《た》らざる処を補《おぎな》はんが為めに水流に映ずる市街燈火の美を論じてゐる。
 今|試《こゝろみ》に東京の市街と水との審美的関係を考ふるに、水は江戸時代より継続して今日《こんにち》に於ても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となつてゐる。陸路運輸の便《べん》を欠いてゐた江戸時代にあつては、天然の河流たる隅田川と此れに通ずる幾筋の運河とは、云ふまでもなく江戸商業の生命であつたが、其れと共《とも》に都会の住民に対しては春秋四季《しゆんじうしき》の娯楽を与へ、時に不朽の価値ある詩歌《しいか》絵画をつくらしめた。然るに東京の今日《こんにち》市内の水流は単に運輸の為めのみとなり、全く伝来の審美的価値を失ふに至つた。隅田川は云ふに及ばず神田のお茶の水|本所《ほんじよ》の竪川《たてかは》を始め市中《しちゆう》の水流は、最早《もは》や現代の吾々には昔の人が船宿の桟橋から猪牙船《ちよきぶね》に乗つて山谷《さんや》に通ひ柳島《やなぎしま》に遊び深川《ふかがは》に戯れたやうな風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与へなくなつた。今日《こんにち》の隅田川は巴里《パリー》に於けるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育《ニユーヨーク》のホドソン、倫敦《ロンドン》のテヱムスに対するが如く偉大なる富国《ふこく》の壮観をも想像させない。東京市の河流は其の江湾なる品川《しながは》の入海《いりうみ》と共に、さして美《うつく》しくもなく大きくもなく又さほどに繁華でもなく、誠に何方《どつち》つかずの極めてつまらない景色をなすに過ぎない。しかし其れにも係《かゝは》らず東京市中の散歩に於て、今日《こんにち》猶《なほ》比較的興味あるものは矢張《やはり》水流れ船動き橋かゝる処の景色である。
 東京の水を論ずるに当つてまづ此《これ》を区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川|中川《なかがは》六郷川《ろくがうがは》の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川《おとなしがは》の如き細流《さいりう》、第四は本所深川日本橋|京橋《きやうばし》下谷|浅草《あさくさ》等《とう》市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川《さくらがは》、根津の藍染川《あゐそめがは》、麻布の古川《ふるかは》、下谷の忍川《しのぶがは》の如き其の名のみ美しき溝渠《こうきよ》、もしくは下水《げすゐ》、第六は江戸城を取巻く幾重《いくへ》の濠《ほり》、第七は不忍池《しのばずのいけ》、角筈十二社《つのはずじふにさう》の如き池である。井戸は江戸時代にあつては三宅坂側《みやけざかそば》の桜《さくら》ヶ|井《ゐ》も清水谷《しみづだに》の柳《やなぎ》の井《ゐ》、湯島《ゆしま》の天神《てんじん》の御福《おふく》の井《ゐ》の如き、古来江戸名所の中《うち》に数へられたものが多かつたが、東京になつてから全く世人に忘れられ所在の地さへ大抵は不明となつた。
 東京市は此《かく》の如く海と河と堀と溝《みぞ》と、仔細《しさい》に観察し来《きた》れば其等幾種類の水――既ち流れ動く水と淀《よど》んで動かぬ死したる水とを有する頗《すこぶる》変化に富んだ都会である。まづ品川の入海《いりうみ》を眺めんにここは目下|猶《なほ》築港の大工事中であれば、将来如何なる光景を呈し来《きた》るや今より予想する事はできない。今日《こんにち》まで吾々が年久しく見馴れて来た品川の海は僅《わづか》に房州通《ぼうしうがよひ》の蒸汽船と円《まる》ツこい達磨船《だるません》を曳動《ひきうごか》す曳船の往来する外《ほか》、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もない泥海《どろうみ》である。潮《しほ》の引く時|泥土《でいど》は目のとゞく限り引続いて、岸近くには古下駄に炭俵、さては皿小鉢や椀のかけらに船虫のうようよと這寄《はひよ》るばかり。この汚《きたな》い溝《どぶ》のやうな沼地《ぬまち》を掘返しながら折々《をり/\》は沙蚕《ごかひ》取りが手桶を下げて沙蚕《ごかひ》を取つてゐる事がある。遠くの沖には彼方《かなた》此方《こなた》に澪《みを》や粗朶《そだ》が突立《つつた》つてゐるが、これさへ岸より眺むれば塵芥《ちりあくた》かと思はれ、その間《あひだ》に泛《うか》ぶ牡蠣舟《かきぶね》や苔取《のりとり》の小舟《こぶね》も今は唯|強《し》ひて江戸の昔を追回《つゐくわい》しやうとする人の眼《め》にのみ聊《いさゝ》かの風趣を覚えさせるばかりである。かく現代の首府に対しては実用にも装飾にも何にもならぬ此の無用なる品川湾の眺望は、彼《か》の八《や》ツ山《やま》の沖《おき》に並《なら》んで泛《うか》ぶ此《これ》も無用なる御台場《おだいば》と相俟《あひま》つて、いかにも過去《すぎさ》つた時代の遺物らしく放棄された悲しい趣《おもむき》を示してゐる。天気のよい時|白帆《しらほ》や浮雲《うきぐも》と共に望み得られる安房上総《あはかづさ》の山影《さんえい》とても、最早《もは》や今日《こんにち》の都会人には彼《か》の花川戸助六《はなかはどすけろく》が台詞《せりふ》にも読込まれてゐるやうな爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く湮滅してしまつたに係《かゝは》らず、其の代《かは》りとして興るべき新しい風景に対する興味は今日《こんにち》に於ては未《いま》だ成立《なりた》たずにゐるのである。
 芝浦《しばうら》の月見も高輪《たかなわ》の二十六夜待《にじふろくやまち》も既になき世の語草《かたりぐさ》である。南品《なんぴん》の風流を伝へた楼台《ろうだい》も今は唯《たゞ》不潔なる娼家《しやうか》に過ぎぬ。明治二十七八年頃|江見水蔭子《えみすゐいんし》がこの地の娼婦《しやうふ》を材料として描《ゑが》いた小説「泥水清水《どろみづしみつ》」の一篇は当時|硯友社《けんいうしや》の文壇に傑作として批評されたものであつたが、今よりして回想《くわいさう》すれば、これすら既に遠い世のさまを描《ゑが》いた物語のやうな気がしてならぬ。
 かく品川の景色の見捨てられてしまつたのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の叢《むらが》り立つた大川口《おほかはぐち》の光景は、折々《をり/\》西洋の漫画に見るやうな一種の趣味に照《てら》して、此後《このご》とも案外長く或《ある》一派の詩人を悦《よろこ》ばす事が出来るかも知れぬ。木下杢太郎《きのしたもくたろう》北原白秋《きたはらはくしう》諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋《つきしまえいたいばし》あたりの生活及び其の風景によつて感興を発したらしく思はれるものが尠《すくな》くなかつた。全く石川島《いしかはじま》の工場を後《うしろ》にして幾艘となく帆柱を連ねて碇泊するさま/″\な日本風の荷船や西洋形の帆前船《ほまへせん》を見ればおのづと特種の詩情が催《もよほ》される。私は永代橋《えいたいばし》を渡る時活動する此の河口《かはぐち》の光景に接するやドオデヱがセヱン河を往復する荷船の生活を描《ゑが》いた可憐なる彼《か》の「ラ・ニベルネヱズ」の一小篇を思出《おもひだ》すのである、今日《こんにち》の永代橋には最早《もは》や辰巳《たつみ》の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋《えいたいばし》の鉄橋をば却《かへつ》てかの吾妻橋《あづまばし》や両国橋《りやうごくばし》の如くに醜《みに》くいとは思はない。新しい鉄の橋はよく新《あたら》しい河口《かこう》の風景に一致してゐる。

 私が十五六歳の頃であつた。永代橋《えいたいばし》の河下《かはしも》には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として立腐《たちぐさ》れのまゝに繋がれてゐた時分、同級の中学生といつものやうに浅草橋《あさくさばし》の船宿から小舟《こぶね》を借りてこの辺《へん》を漕ぎ廻り、河中《かはなか》に碇泊して居る帆前船《ほまへせん》を見物して、こわい顔した船長から椰子《やし》の実を沢山貰つて帰つて来た事がある。其の折《をり》私達は船長がこの小さな帆前船《ほまへせん》を操《あやつ》つて遠く南洋まで航海するのだといふ話を聞き、全くロビンソンの冒険談を読むやうな感に打たれ、将来自分達もどうにかしてあのやうな勇猛なる航海者になりたいと思つた事があつた。
 矢張《やはり》其の時分の話である。築地《つきぢ》の河岸《かし》の船宿から四挺艪《しちやうろ》のボオトを借りて遠く千住《せんじゆ》の方まで漕ぎ上《のぼ》つた帰り引汐《ひきしほ》につれて佃島《つくだじま》の手前まで下《くだ》つて来た時、突然|向《むかう》から帆を上げて進んで来る大きな高瀬船《たかせぶね》に衝突し、幸《さいは》ひに一人《ひとり》も怪我はしなかつたけれど、借りたボオトの小舷《こべり》をば散々に破《こは》してしまつた上に櫂《かい》を一本折つてしまつた。一同は皆《みな》親がゝりのものばかり、船遊びをする事も家《うち》へは秘密にしてゐた位《くらゐ》なので、私達は船宿へ帰つて万一破損の弁償金を請求されたらどうしやうかと其の善後策を講ずる為めに、佃島《つくだじま》の砂の上にボオトを引上げ浸水をかい出しながら相談をした。その結果夜暗くなつてから船宿の桟橋へ船を着け、宿の亭主が舷《ふなべり》の大破損に気のつかない中一同|一目散《いちもくさん》に逃げ出すがよからうといふ事になつた。一同はお浜御殿《はまごてん》の石垣下まで漕入《こぎい》つてから空腹《くうふく》を我慢しつゝ水の上の全く暗くなるのを待ち船宿の桟橋へ上《あが》るや否や、店に預けて置いた手荷物を奪ふやうに引掴《ひつつか》み、めい/\後《あと》をも見ず、ひた走りに銀座の大通りまで走つて、漸《やつ》と息をついた事があつた。その頃には東京府々立の中学校が築地《つきぢ》にあつたのでその辺《へん》の船宿では釣船の外にボオトをも貸したのである。今日《こんにち》築地《つきぢ》の河岸《かし》を散歩しても私ははつきりと其の船宿の何処《いづこ》にあつたかを確めることが出来ない。わづか二十年|前《ぜん》なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化は寧《むし》ろ驚くの外《ほか》はない。

 大川筋《おほかはすぢ》一帯の風景について、其の最も興味ある部分は今述べたやうに永代橋河口《えいたいばしかこう》の眺望を第一とする。吾妻橋《あづまばし》両国橋《りやうごくばし》等の眺望は今日《こんにち》の処あまりに不整頓にして永代橋《えいたいばし》に於けるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。之《これ》を例するに浅野《あさの》セメント会社の工場と新大橋《しんおほはし》の向《むかう》に残る古い火見櫓《ひのみやぐら》の如き、或は浅草蔵前《あさくさくらまへ》の電燈会社と駒形堂《こまがただう》の如き、国技館《こくぎかん》と回向院《ゑかうゐん》の如き、或は橋場《はしば》の瓦斯《がす》タンクと真崎稲荷《まつさきいなり》の老樹の如き、其等《それら》工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺蹟とは、いづれも個々別々に私の感想を
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