錯乱させるばかりである。されば私は此《かく》の如く過去と現在、既ち廃頽と進歩との現象のあまりに甚しく混雑してゐる今日《こんにち》の大川筋《おほかはすぢ》よりも、深川《ふかがは》小名木川《をなぎがは》より猿江裏《さるえうら》の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残《なごり》も容易《たやす》くは尋ねられぬ程になつた処を選ぶ。大川筋《おほかはすぢ》は千住《せんぢゆ》より両国《りやうごく》に至るまで今日《こんにち》に於てはまだ/\工業の侵略が緩慢に過ぎてゐる。本所小梅《ほんじよこうめ》から押上辺《おしあげへん》に至る辺《あたり》も同じ事、新しい工場町《こうぢやうまち》として此れを眺めやうとする時、今となつては却《かへつ》て柳島《やなぎしま》の妙見堂《めうけんだう》と料理屋の橋本《はしもと》とが目ざはりである。
運河の眺望は深川《ふかがは》の小名木川辺《をなぎがはへん》に限らず、いづこに於ても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまつた感興を起させる。一例を挙ぐれば中州《なかず》と箱崎町《はこざきちやう》の出端《でばな》との間《あひだ》に深く突入《つきい》つてゐる堀割は此れを箱崎町の永久橋《えいきうばし》または菖蒲河岸《しやうぶがし》の女橋《をんなばし》から眺めやるに水は恰《あたか》も入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風|収《をさ》まる時|競《きそ》つて炊烟《すゐえん》を棚曳《たなび》かすさま正に江南沢国《かうなんたくこく》の趣《おもむき》をなす。凡《すべ》て溝渠《こうきよ》運河の眺望の最も変化に富み且《か》つ活気を帯びる処は、この中洲《なかず》の水のやうに彼方《かなた》此方《こなた》から幾筋《いくすぢ》の細い流れが稍《やゝ》広い堀割を中心にして一個所に落合つて来る処、若《も》しくは深川の扇橋《あふぎばし》の如く、長い堀割が互に交叉して十字形をなす処である。本所柳原《ほんじよやなぎはら》の新辻橋《しんつじばし》、京橋八丁堀《きやうばしはつちやうぼり》の白魚橋《しらうをばし》、霊岸島《れいがんじま》の霊岸橋《れいがんばし》あたりの眺望は堀割の水の或は分れ或は合《がつ》する処、橋は橋に接し、流れは流れと相激《あひげき》し、稍《やゝ》ともすれば船は船に突当らうとしてゐる。私はかゝる風景の中《うち》日本橋を背にして江戸橋の上より菱形をなした広い水の片側《かたかは》には荒布橋《あらめばし》つゞいて思案橋《しあんばし》、片側には鎧橋《よろひばし》を見る眺望をば、其の沿岸の商家倉庫及び街上|橋頭《けうとう》の繁華雑沓と合せて、東京市内の堀割の中《うち》にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に歳暮《さいぼ》の夜景の如き橋上《けうじやう》を往来する車の灯《ひ》は沿岸の燈火《とうくわ》と相乱れて徹宵《てつせう》水の上に揺《ゆらめ》き動く有様《ありさま》銀座街頭の燈火《とうくわ》より遥《はるか》に美麗である。
堀割の岸には処々《しよ/\》に物揚場《ものあげば》がある。市中《しちゆう》の生活に興味を持つものには物揚場《ものあげば》の光景も亦《また》しばし杖を留《とゞ》むるに足りる。夏の炎天|神田《かんだ》の鎌倉河岸《かまくらがし》、牛込揚場《うしごめあげば》の河岸《かし》などを通れば、荷車の馬は馬方と共につかれて、河添《かはぞひ》の大きな柳の木の下《した》に居眠りをしてゐる。砂利《じやり》や瓦や川土《かはつち》を積み上げた物蔭にはきまつて牛飯《ぎうめし》やすゐとん[#「すゐとん」に傍点]の露店が出てゐる。時には氷屋も荷を卸《おろ》してゐる。荷車の後押しをする車力の女房は男と同じやうな身仕度をして立ち働き、其の赤児《あかご》をば捨児《すてご》のやうに砂の上に投出してゐると、其の辺《へん》には痩《や》せた鶏が落ちこぼれた餌をも※[#「求/(餮−殄)」、第4水準2−92−54]《あさ》りつくして、馬の尻から馬糞《ばふん》の落ちるのを待つてゐる。私はこれ等の光景に接すると、必《かならず》北斎或はミレヱを連想して深刻なる絵画的写実の感興を誘《いざな》ひ出され、自《みづか》ら絵事《くわいじ》の心得なき事を悲しむのである。
以上|河流《かりう》と運河の外|猶《なほ》東京の水の美に関しては処々《しよ/\》の下水が落合つて次第に川の如き流《ながれ》をなす溝川《みぞかは》の光景を尋《たづ》ねて見なければならない。東京の溝川《みぞかは》には折々《をり/\》可笑《をか》しい程事実と相違した美しい名がつけられてある。例へば芝愛宕下《しばあたごした》なる青松寺《せいしようじ》の前を流れる下水を昔から桜川《さくらがは》と呼び又|今日《こんにち》では全く埋尽《うづめつく》された神田鍛冶町《かんだかぢちやう》の下水を逢初川《あひそめがは》、橋場総泉寺《はしばそうせんじ》の裏手から真崎《まつさき》へ出る溝川《みぞかは》を思川《おもひがは》、また小石川金剛寺坂下《こいしかはこんがうじざかした》の下水を人参川《にんじんがは》と呼ぶ類《たぐひ》である。江戸時代にあつては此等の溝川《みぞかは》も寺院の門前や大名屋敷の塀外《へいそと》なぞ、幾分か人の目につく場所を流れてゐたやうな事から、土地の人にはその名の示すが如き特殊な感情を与へたものかも知れない。然し今日《こんにち》の東京になつては下水を呼んで川となすことすら既に滑稽なほど大袈裟《おほげさ》である。かくの如く其の名と其の実との相伴《あひともな》はざる事は独り下水の流れのみには留まらない。江戸時代とまた其の以前からの伝説を継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には千仭《せんじん》の幽谷を見るやうに地獄谷《ぢごくだに》(麹町にあり)千日谷《せんにちだに》(四谷鮫ヶ橋に在り)我善坊《がぜんばう》ヶ|谷《だに》(麻布に在り)なぞいふ名がつけられ、また少しく小高《こだか》い処は直ちに峨々《がゝ》たる山岳の如く、愛宕山《あたごやま》道灌山《どうかんやま》待乳山《まつちやま》なぞと呼ばれてゐる。島なき場所も柳島《やなぎしま》三河島《みかはしま》向島《むかうじま》なぞと呼ばれ、森なき処にも烏森《からすもり》、鷺《さぎ》の森《もり》の如き名称が残されてある。始めて東京へ出て来た地方の人は、電車の乗換場《のりかへば》を間違へたり市中《しちゆう》の道に迷つたりした腹立《はらだち》まぎれ、斯《かゝ》る地名の虚偽を以てこれ亦《また》都会の憎むべき悪風として観察するかも知れない。
溝川《みぞかは》は元《もと》より下水に過ぎない。紫《むらさき》の一本《ひともと》にも芝の宇田川《うだがは》を説く条《くだり》に、「溜池《ためいけ》の屋舗《やしき》の下水落ちて愛宕《あたご》の下《した》より増上寺《ぞうじやうじ》の裏門を流れて爰《こゝ》に落《おつ》る。愛宕《あたご》の下《した》、屋敷々々の下水も落ち込む故|宇田川橋《うだがはばし》にては少しの川のやうに見ゆれども水上《みなかみ》はかくの如し。」とある通り、昔から江戸の市中《しちゆう》には下水の落合つて川をなすものが少くなかつた。下水の落合つて川となつた流れは道に沿ひ坂の麓を廻《めぐ》り流れ流れて行く中《うち》に段々広くなつて、天然の河流又は海に落込むあたりになると何《ど》うやら此《か》うやら伝馬船《てんません》を通はせる位《くらゐ》になる。麻布《あざぶ》の古川《ふるかは》は芝山内《しばさんない》の裏手近く其の名も赤羽川《あかばねがは》と名付けられるやうになると、山内《さんない》の樹木と五重塔《ごぢゆうのたう》の聳《そび》ゆる麓《ふもと》を巡《めぐ》つて舟揖《しうしふ》の便を与ふるのみか、紅葉《こうえふ》の頃は四条派《しでうは》の絵にあるやうな景色を見せる。王子《わうじ》の音無川《おとなしかは》も三河島《みかはしま》の野を潤《うるほ》した其の末は山谷堀《さんやぼり》となつて同じく船を泛《うか》べる。
下水と溝川《みぞかは》はその上に架《かゝ》つた汚《きたな》い木橋《きばし》や、崩れた寺の塀、枯れかゝつた生垣《いけがき》、または貧しい人家の様《さま》と相対して、屡《しば/\》憂鬱なる裏町の光景を組織する。既ち小石川柳町《こいしかはやなぎちやう》の小流《こながれ》の如き、本郷《ほんがう》なる本妙寺坂下《ほんめうじさかした》の溝川《みぞかは》の如き、団子坂下《だんござかした》から根津《ねづ》に通ずる藍染川《あゐそめがは》の如き、かゝる溝川《みぞかは》流《なが》るゝ裏町は大雨《たいう》の降る折《をり》と云へば必《かなら》ず雨潦《うれう》の氾濫に災害を被《かうむ》る処である。溝川が貧民窟に調和する光景の中《うち》、其の最も悲惨なる一例を挙げれば麻布《あざぶ》の古川橋《ふるかはばし》から三之橋《さんのはし》に至る間《あひだ》の川筋であらう。ぶりき板の破片や腐つた屋根板で葺《ふ》いたあばら[#「あばら」に傍点]家《や》は数町に渡つて、左右《さいう》から濁水《だくすゐ》を挟《さしはさ》んで互にその傾いた廂《ひさし》を向ひ合せてゐる。春秋《はるあき》時候の変り目に降りつゞく大雨《たいう》の度毎《たびごと》に、芝《しば》と麻布《あざぶ》の高台から滝のやうに落ちて来る濁水は忽ち両岸《りやうがん》に氾濫して、あばら家《や》の腐つた土台から軈《やが》ては破れた畳《たゝみ》までを浸《ひた》してしまふ。雨が霽《は》れると水に濡れた家具や夜具《やぐ》蒲団《ふとん》を初め、何とも知れぬ汚《きたな》らしい襤褸《ぼろ》の数々は旗か幟《のぼり》のやうに両岸《りやうがん》の屋根や窓の上に曝《さら》し出される。そして真黒な裸体《らたい》の男や、腰巻一つの汚《きたな》い女房や、又は子供を背負つた児娘《こむすめ》までが笊《ざる》や籠や桶《をけ》を持つて濁流の中《うち》に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れて来る雑魚《ざこ》を捕へやうと急《あせ》つてゐる有様、通りがゝりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の下《もと》に、或時は却《かへ》つて一種の壮観を呈してゐる事がある。かゝる場合に看取《かんしゆ》せられる壮観は、丁度《ちやうど》軍隊の整列|若《も》しくは舞台に於ける並大名《ならびだいみやう》を見る時と同様で一つ/\に離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、此処に思ひがけない美麗と威厳とが形造られる。古川橋《ふるかはばし》から眺める大雨《たいう》の後《あと》の貧家の光景の如きも矢張《やはり》此《この》一例であらう。
江戸城の濠《ほり》は蓋《けだ》し水の美の冠たるもの。然し此の事は叙述の筆を以てするよりも寧《むし》ろ絵画の技《ぎ》を以てするに如《し》くはない。それ故私は唯《たゞ》代官町《だいくわんちやう》の蓮池御門《はすいけごもん》、三宅坂下《みやけざかした》の桜田御門《さくらだごもん》、九段坂下《くだんざかした》の牛《うし》ヶ|淵《ふち》等《とう》古来人の称美する場所の名を挙げるに留《とゞ》めて置く。
池には古来より不忍池《しのばずのいけ》の勝景ある事これも今更《いまさら》説く必要がない。私は毎年の秋|竹《たけ》の台《だい》に開かれる絵画展覧会を見ての帰り道、いつも市気《しき》満々《まん/\》たる出品の絵画よりも、向《むかう》ヶ|岡《をか》の夕陽《せきやう》敗荷《はいか》の池に反映する天然の絵画に対して杖を留《とゞ》むるを常とした。そして現代美術の品評よりも独り離れて自然の画趣に恍惚とする方が遥《はるか》に平和幸福である事を知るのである。
不忍池《しのばずのいけ》は今日《こんにち》市中に残された池の中《うち》の最後のものである。江戸の名所に数へられた鏡《かゞみ》ヶ|池《いけ》や姥《うば》ヶ|池《いけ》は今更《いまさら》尋《たづね》る由《よし》もない。浅草寺境内《せんさうじけいだい》の弁天山《べんてんやま》の池も既に町家《まちや》となり、また赤坂の溜池も跡方《あとかた》なく埋《うづ》めつくされた。それによつて私は将来|不忍池《しのばずのいけ》も亦《また》同様の運命に陥りはせぬかと危《あやぶ》むのである。老樹
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