《たかせぶね》に衝突し、幸《さいは》ひに一人《ひとり》も怪我はしなかつたけれど、借りたボオトの小舷《こべり》をば散々に破《こは》してしまつた上に櫂《かい》を一本折つてしまつた。一同は皆《みな》親がゝりのものばかり、船遊びをする事も家《うち》へは秘密にしてゐた位《くらゐ》なので、私達は船宿へ帰つて万一破損の弁償金を請求されたらどうしやうかと其の善後策を講ずる為めに、佃島《つくだじま》の砂の上にボオトを引上げ浸水をかい出しながら相談をした。その結果夜暗くなつてから船宿の桟橋へ船を着け、宿の亭主が舷《ふなべり》の大破損に気のつかない中一同|一目散《いちもくさん》に逃げ出すがよからうといふ事になつた。一同はお浜御殿《はまごてん》の石垣下まで漕入《こぎい》つてから空腹《くうふく》を我慢しつゝ水の上の全く暗くなるのを待ち船宿の桟橋へ上《あが》るや否や、店に預けて置いた手荷物を奪ふやうに引掴《ひつつか》み、めい/\後《あと》をも見ず、ひた走りに銀座の大通りまで走つて、漸《やつ》と息をついた事があつた。その頃には東京府々立の中学校が築地《つきぢ》にあつたのでその辺《へん》の船宿では釣船の外にボオトをも貸したのである。今日《こんにち》築地《つきぢ》の河岸《かし》を散歩しても私ははつきりと其の船宿の何処《いづこ》にあつたかを確めることが出来ない。わづか二十年|前《ぜん》なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化は寧《むし》ろ驚くの外《ほか》はない。

 大川筋《おほかはすぢ》一帯の風景について、其の最も興味ある部分は今述べたやうに永代橋河口《えいたいばしかこう》の眺望を第一とする。吾妻橋《あづまばし》両国橋《りやうごくばし》等の眺望は今日《こんにち》の処あまりに不整頓にして永代橋《えいたいばし》に於けるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。之《これ》を例するに浅野《あさの》セメント会社の工場と新大橋《しんおほはし》の向《むかう》に残る古い火見櫓《ひのみやぐら》の如き、或は浅草蔵前《あさくさくらまへ》の電燈会社と駒形堂《こまがただう》の如き、国技館《こくぎかん》と回向院《ゑかうゐん》の如き、或は橋場《はしば》の瓦斯《がす》タンクと真崎稲荷《まつさきいなり》の老樹の如き、其等《それら》工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺蹟とは、いづれも個々別々に私の感想を錯乱させるばかりである。されば私は此《かく》の如く過去と現在、既ち廃頽と進歩との現象のあまりに甚しく混雑してゐる今日《こんにち》の大川筋《おほかはすぢ》よりも、深川《ふかがは》小名木川《をなぎがは》より猿江裏《さるえうら》の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残《なごり》も容易《たやす》くは尋ねられぬ程になつた処を選ぶ。大川筋《おほかはすぢ》は千住《せんぢゆ》より両国《りやうごく》に至るまで今日《こんにち》に於てはまだ/\工業の侵略が緩慢に過ぎてゐる。本所小梅《ほんじよこうめ》から押上辺《おしあげへん》に至る辺《あたり》も同じ事、新しい工場町《こうぢやうまち》として此れを眺めやうとする時、今となつては却《かへつ》て柳島《やなぎしま》の妙見堂《めうけんだう》と料理屋の橋本《はしもと》とが目ざはりである。

 運河の眺望は深川《ふかがは》の小名木川辺《をなぎがはへん》に限らず、いづこに於ても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまつた感興を起させる。一例を挙ぐれば中州《なかず》と箱崎町《はこざきちやう》の出端《でばな》との間《あひだ》に深く突入《つきい》つてゐる堀割は此れを箱崎町の永久橋《えいきうばし》または菖蒲河岸《しやうぶがし》の女橋《をんなばし》から眺めやるに水は恰《あたか》も入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風|収《をさ》まる時|競《きそ》つて炊烟《すゐえん》を棚曳《たなび》かすさま正に江南沢国《かうなんたくこく》の趣《おもむき》をなす。凡《すべ》て溝渠《こうきよ》運河の眺望の最も変化に富み且《か》つ活気を帯びる処は、この中洲《なかず》の水のやうに彼方《かなた》此方《こなた》から幾筋《いくすぢ》の細い流れが稍《やゝ》広い堀割を中心にして一個所に落合つて来る処、若《も》しくは深川の扇橋《あふぎばし》の如く、長い堀割が互に交叉して十字形をなす処である。本所柳原《ほんじよやなぎはら》の新辻橋《しんつじばし》、京橋八丁堀《きやうばしはつちやうぼり》の白魚橋《しらうをばし》、霊岸島《れいがんじま》の霊岸橋《れいがんばし》あたりの眺望は堀割の水の或は分れ或は合《がつ》する処、橋は橋に接し、流れは流れと相激《あひげき》し、稍《やゝ》ともすれば船は船に突当らうとしてゐる。私はかゝる風景の中《うち》日本橋を背にして江戸橋の上より菱形をなした広い水の片側《かたかは》には荒
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