布橋《あらめばし》つゞいて思案橋《しあんばし》、片側には鎧橋《よろひばし》を見る眺望をば、其の沿岸の商家倉庫及び街上|橋頭《けうとう》の繁華雑沓と合せて、東京市内の堀割の中《うち》にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に歳暮《さいぼ》の夜景の如き橋上《けうじやう》を往来する車の灯《ひ》は沿岸の燈火《とうくわ》と相乱れて徹宵《てつせう》水の上に揺《ゆらめ》き動く有様《ありさま》銀座街頭の燈火《とうくわ》より遥《はるか》に美麗である。
 堀割の岸には処々《しよ/\》に物揚場《ものあげば》がある。市中《しちゆう》の生活に興味を持つものには物揚場《ものあげば》の光景も亦《また》しばし杖を留《とゞ》むるに足りる。夏の炎天|神田《かんだ》の鎌倉河岸《かまくらがし》、牛込揚場《うしごめあげば》の河岸《かし》などを通れば、荷車の馬は馬方と共につかれて、河添《かはぞひ》の大きな柳の木の下《した》に居眠りをしてゐる。砂利《じやり》や瓦や川土《かはつち》を積み上げた物蔭にはきまつて牛飯《ぎうめし》やすゐとん[#「すゐとん」に傍点]の露店が出てゐる。時には氷屋も荷を卸《おろ》してゐる。荷車の後押しをする車力の女房は男と同じやうな身仕度をして立ち働き、其の赤児《あかご》をば捨児《すてご》のやうに砂の上に投出してゐると、其の辺《へん》には痩《や》せた鶏が落ちこぼれた餌をも※[#「求/(餮−殄)」、第4水準2−92−54]《あさ》りつくして、馬の尻から馬糞《ばふん》の落ちるのを待つてゐる。私はこれ等の光景に接すると、必《かならず》北斎或はミレヱを連想して深刻なる絵画的写実の感興を誘《いざな》ひ出され、自《みづか》ら絵事《くわいじ》の心得なき事を悲しむのである。

 以上|河流《かりう》と運河の外|猶《なほ》東京の水の美に関しては処々《しよ/\》の下水が落合つて次第に川の如き流《ながれ》をなす溝川《みぞかは》の光景を尋《たづ》ねて見なければならない。東京の溝川《みぞかは》には折々《をり/\》可笑《をか》しい程事実と相違した美しい名がつけられてある。例へば芝愛宕下《しばあたごした》なる青松寺《せいしようじ》の前を流れる下水を昔から桜川《さくらがは》と呼び又|今日《こんにち》では全く埋尽《うづめつく》された神田鍛冶町《かんだかぢちやう》の下水を逢初川《あひそめがは》、橋場総泉寺《はしばそうせんじ》の裏手から真崎《まつさき》へ出る溝川《みぞかは》を思川《おもひがは》、また小石川金剛寺坂下《こいしかはこんがうじざかした》の下水を人参川《にんじんがは》と呼ぶ類《たぐひ》である。江戸時代にあつては此等の溝川《みぞかは》も寺院の門前や大名屋敷の塀外《へいそと》なぞ、幾分か人の目につく場所を流れてゐたやうな事から、土地の人にはその名の示すが如き特殊な感情を与へたものかも知れない。然し今日《こんにち》の東京になつては下水を呼んで川となすことすら既に滑稽なほど大袈裟《おほげさ》である。かくの如く其の名と其の実との相伴《あひともな》はざる事は独り下水の流れのみには留まらない。江戸時代とまた其の以前からの伝説を継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には千仭《せんじん》の幽谷を見るやうに地獄谷《ぢごくだに》(麹町にあり)千日谷《せんにちだに》(四谷鮫ヶ橋に在り)我善坊《がぜんばう》ヶ|谷《だに》(麻布に在り)なぞいふ名がつけられ、また少しく小高《こだか》い処は直ちに峨々《がゝ》たる山岳の如く、愛宕山《あたごやま》道灌山《どうかんやま》待乳山《まつちやま》なぞと呼ばれてゐる。島なき場所も柳島《やなぎしま》三河島《みかはしま》向島《むかうじま》なぞと呼ばれ、森なき処にも烏森《からすもり》、鷺《さぎ》の森《もり》の如き名称が残されてある。始めて東京へ出て来た地方の人は、電車の乗換場《のりかへば》を間違へたり市中《しちゆう》の道に迷つたりした腹立《はらだち》まぎれ、斯《かゝ》る地名の虚偽を以てこれ亦《また》都会の憎むべき悪風として観察するかも知れない。

 溝川《みぞかは》は元《もと》より下水に過ぎない。紫《むらさき》の一本《ひともと》にも芝の宇田川《うだがは》を説く条《くだり》に、「溜池《ためいけ》の屋舗《やしき》の下水落ちて愛宕《あたご》の下《した》より増上寺《ぞうじやうじ》の裏門を流れて爰《こゝ》に落《おつ》る。愛宕《あたご》の下《した》、屋敷々々の下水も落ち込む故|宇田川橋《うだがはばし》にては少しの川のやうに見ゆれども水上《みなかみ》はかくの如し。」とある通り、昔から江戸の市中《しちゆう》には下水の落合つて川をなすものが少くなかつた。下水の落合つて川となつた流れは道に沿ひ坂の麓を廻《めぐ》り流れ流れて行く中《うち》に段々広くなつて、天然の河流又は海に落込むあたりになると何《
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