ど》うやら此《か》うやら伝馬船《てんません》を通はせる位《くらゐ》になる。麻布《あざぶ》の古川《ふるかは》は芝山内《しばさんない》の裏手近く其の名も赤羽川《あかばねがは》と名付けられるやうになると、山内《さんない》の樹木と五重塔《ごぢゆうのたう》の聳《そび》ゆる麓《ふもと》を巡《めぐ》つて舟揖《しうしふ》の便を与ふるのみか、紅葉《こうえふ》の頃は四条派《しでうは》の絵にあるやうな景色を見せる。王子《わうじ》の音無川《おとなしかは》も三河島《みかはしま》の野を潤《うるほ》した其の末は山谷堀《さんやぼり》となつて同じく船を泛《うか》べる。
 下水と溝川《みぞかは》はその上に架《かゝ》つた汚《きたな》い木橋《きばし》や、崩れた寺の塀、枯れかゝつた生垣《いけがき》、または貧しい人家の様《さま》と相対して、屡《しば/\》憂鬱なる裏町の光景を組織する。既ち小石川柳町《こいしかはやなぎちやう》の小流《こながれ》の如き、本郷《ほんがう》なる本妙寺坂下《ほんめうじさかした》の溝川《みぞかは》の如き、団子坂下《だんござかした》から根津《ねづ》に通ずる藍染川《あゐそめがは》の如き、かゝる溝川《みぞかは》流《なが》るゝ裏町は大雨《たいう》の降る折《をり》と云へば必《かなら》ず雨潦《うれう》の氾濫に災害を被《かうむ》る処である。溝川が貧民窟に調和する光景の中《うち》、其の最も悲惨なる一例を挙げれば麻布《あざぶ》の古川橋《ふるかはばし》から三之橋《さんのはし》に至る間《あひだ》の川筋であらう。ぶりき板の破片や腐つた屋根板で葺《ふ》いたあばら[#「あばら」に傍点]家《や》は数町に渡つて、左右《さいう》から濁水《だくすゐ》を挟《さしはさ》んで互にその傾いた廂《ひさし》を向ひ合せてゐる。春秋《はるあき》時候の変り目に降りつゞく大雨《たいう》の度毎《たびごと》に、芝《しば》と麻布《あざぶ》の高台から滝のやうに落ちて来る濁水は忽ち両岸《りやうがん》に氾濫して、あばら家《や》の腐つた土台から軈《やが》ては破れた畳《たゝみ》までを浸《ひた》してしまふ。雨が霽《は》れると水に濡れた家具や夜具《やぐ》蒲団《ふとん》を初め、何とも知れぬ汚《きたな》らしい襤褸《ぼろ》の数々は旗か幟《のぼり》のやうに両岸《りやうがん》の屋根や窓の上に曝《さら》し出される。そして真黒な裸体《らたい》の男や、腰巻一つの汚《きたな》い女房や、又は子供を背負つた児娘《こむすめ》までが笊《ざる》や籠や桶《をけ》を持つて濁流の中《うち》に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れて来る雑魚《ざこ》を捕へやうと急《あせ》つてゐる有様、通りがゝりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の下《もと》に、或時は却《かへ》つて一種の壮観を呈してゐる事がある。かゝる場合に看取《かんしゆ》せられる壮観は、丁度《ちやうど》軍隊の整列|若《も》しくは舞台に於ける並大名《ならびだいみやう》を見る時と同様で一つ/\に離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、此処に思ひがけない美麗と威厳とが形造られる。古川橋《ふるかはばし》から眺める大雨《たいう》の後《あと》の貧家の光景の如きも矢張《やはり》此《この》一例であらう。

 江戸城の濠《ほり》は蓋《けだ》し水の美の冠たるもの。然し此の事は叙述の筆を以てするよりも寧《むし》ろ絵画の技《ぎ》を以てするに如《し》くはない。それ故私は唯《たゞ》代官町《だいくわんちやう》の蓮池御門《はすいけごもん》、三宅坂下《みやけざかした》の桜田御門《さくらだごもん》、九段坂下《くだんざかした》の牛《うし》ヶ|淵《ふち》等《とう》古来人の称美する場所の名を挙げるに留《とゞ》めて置く。
 池には古来より不忍池《しのばずのいけ》の勝景ある事これも今更《いまさら》説く必要がない。私は毎年の秋|竹《たけ》の台《だい》に開かれる絵画展覧会を見ての帰り道、いつも市気《しき》満々《まん/\》たる出品の絵画よりも、向《むかう》ヶ|岡《をか》の夕陽《せきやう》敗荷《はいか》の池に反映する天然の絵画に対して杖を留《とゞ》むるを常とした。そして現代美術の品評よりも独り離れて自然の画趣に恍惚とする方が遥《はるか》に平和幸福である事を知るのである。
 不忍池《しのばずのいけ》は今日《こんにち》市中に残された池の中《うち》の最後のものである。江戸の名所に数へられた鏡《かゞみ》ヶ|池《いけ》や姥《うば》ヶ|池《いけ》は今更《いまさら》尋《たづね》る由《よし》もない。浅草寺境内《せんさうじけいだい》の弁天山《べんてんやま》の池も既に町家《まちや》となり、また赤坂の溜池も跡方《あとかた》なく埋《うづ》めつくされた。それによつて私は将来|不忍池《しのばずのいけ》も亦《また》同様の運命に陥りはせぬかと危《あやぶ》むのである。老樹
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