は古下駄に炭俵、さては皿小鉢や椀のかけらに船虫のうようよと這寄《はひよ》るばかり。この汚《きたな》い溝《どぶ》のやうな沼地《ぬまち》を掘返しながら折々《をり/\》は沙蚕《ごかひ》取りが手桶を下げて沙蚕《ごかひ》を取つてゐる事がある。遠くの沖には彼方《かなた》此方《こなた》に澪《みを》や粗朶《そだ》が突立《つつた》つてゐるが、これさへ岸より眺むれば塵芥《ちりあくた》かと思はれ、その間《あひだ》に泛《うか》ぶ牡蠣舟《かきぶね》や苔取《のりとり》の小舟《こぶね》も今は唯|強《し》ひて江戸の昔を追回《つゐくわい》しやうとする人の眼《め》にのみ聊《いさゝ》かの風趣を覚えさせるばかりである。かく現代の首府に対しては実用にも装飾にも何にもならぬ此の無用なる品川湾の眺望は、彼《か》の八《や》ツ山《やま》の沖《おき》に並《なら》んで泛《うか》ぶ此《これ》も無用なる御台場《おだいば》と相俟《あひま》つて、いかにも過去《すぎさ》つた時代の遺物らしく放棄された悲しい趣《おもむき》を示してゐる。天気のよい時|白帆《しらほ》や浮雲《うきぐも》と共に望み得られる安房上総《あはかづさ》の山影《さんえい》とても、最早《もは》や今日《こんにち》の都会人には彼《か》の花川戸助六《はなかはどすけろく》が台詞《せりふ》にも読込まれてゐるやうな爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く湮滅してしまつたに係《かゝは》らず、其の代《かは》りとして興るべき新しい風景に対する興味は今日《こんにち》に於ては未《いま》だ成立《なりた》たずにゐるのである。
 芝浦《しばうら》の月見も高輪《たかなわ》の二十六夜待《にじふろくやまち》も既になき世の語草《かたりぐさ》である。南品《なんぴん》の風流を伝へた楼台《ろうだい》も今は唯《たゞ》不潔なる娼家《しやうか》に過ぎぬ。明治二十七八年頃|江見水蔭子《えみすゐいんし》がこの地の娼婦《しやうふ》を材料として描《ゑが》いた小説「泥水清水《どろみづしみつ》」の一篇は当時|硯友社《けんいうしや》の文壇に傑作として批評されたものであつたが、今よりして回想《くわいさう》すれば、これすら既に遠い世のさまを描《ゑが》いた物語のやうな気がしてならぬ。
 かく品川の景色の見捨てられてしまつたのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の叢《むらが》り立つた大川口《おほかはぐち》の光景は、折々《をり/\》西洋の漫画に見るやうな一種の趣味に照《てら》して、此後《このご》とも案外長く或《ある》一派の詩人を悦《よろこ》ばす事が出来るかも知れぬ。木下杢太郎《きのしたもくたろう》北原白秋《きたはらはくしう》諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋《つきしまえいたいばし》あたりの生活及び其の風景によつて感興を発したらしく思はれるものが尠《すくな》くなかつた。全く石川島《いしかはじま》の工場を後《うしろ》にして幾艘となく帆柱を連ねて碇泊するさま/″\な日本風の荷船や西洋形の帆前船《ほまへせん》を見ればおのづと特種の詩情が催《もよほ》される。私は永代橋《えいたいばし》を渡る時活動する此の河口《かはぐち》の光景に接するやドオデヱがセヱン河を往復する荷船の生活を描《ゑが》いた可憐なる彼《か》の「ラ・ニベルネヱズ」の一小篇を思出《おもひだ》すのである、今日《こんにち》の永代橋には最早《もは》や辰巳《たつみ》の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋《えいたいばし》の鉄橋をば却《かへつ》てかの吾妻橋《あづまばし》や両国橋《りやうごくばし》の如くに醜《みに》くいとは思はない。新しい鉄の橋はよく新《あたら》しい河口《かこう》の風景に一致してゐる。

 私が十五六歳の頃であつた。永代橋《えいたいばし》の河下《かはしも》には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として立腐《たちぐさ》れのまゝに繋がれてゐた時分、同級の中学生といつものやうに浅草橋《あさくさばし》の船宿から小舟《こぶね》を借りてこの辺《へん》を漕ぎ廻り、河中《かはなか》に碇泊して居る帆前船《ほまへせん》を見物して、こわい顔した船長から椰子《やし》の実を沢山貰つて帰つて来た事がある。其の折《をり》私達は船長がこの小さな帆前船《ほまへせん》を操《あやつ》つて遠く南洋まで航海するのだといふ話を聞き、全くロビンソンの冒険談を読むやうな感に打たれ、将来自分達もどうにかしてあのやうな勇猛なる航海者になりたいと思つた事があつた。
 矢張《やはり》其の時分の話である。築地《つきぢ》の河岸《かし》の船宿から四挺艪《しちやうろ》のボオトを借りて遠く千住《せんじゆ》の方まで漕ぎ上《のぼ》つた帰り引汐《ひきしほ》につれて佃島《つくだじま》の手前まで下《くだ》つて来た時、突然|向《むかう》から帆を上げて進んで来る大きな高瀬船
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