る家である。阿久はもと下谷《したや》の芸者で、廃《や》めてから私の世話になって二年の後、型《かた》ばかりの式を行って内縁の妻となったのである。右隣りが電話のボタンを拵《こしら》える職人、左隣がブリキ職。ブリキ職の女房は亭主の稼ぎが薄いので、煙突掃除だの、エンヤラコに出たりする。それで五人の子持である。お腹がふくれると、口が殖《ふ》える将来を案じて、出来ることなら流産《ながれ》てしまえば可《よ》いがと不養生のありたけをして、板の間にじかに坐ったり、出水《でみず》の時、股のあたりまである泥水の中を歩き廻ったりしたにもかかわらず、くりくりと太った丈夫な男の児が生れた。
私の家は二畳に四畳半の二間きりである。四畳半には長火鉢《ながひばち》、箪笥《たんす》が二棹《ふたさお》と机とが置いてある。それで、阿久と、お袋と、阿久の姉と四人住んでいるのである。その家へある日私の友達を十人ばかり招いて酒宴を催したのである。
先ず縁側《えんがわ》に呉座《ござ》を敷いた。四畳半へは毛布を敷いた。そして真中に食卓を据《す》えた。長火鉢は台所へ運んで、お袋と姉とは台所へ退却した。そして境界に葭戸《よしど》を立てた。
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