》の横鼻緒《よこはなお》を切ってしまった。維新前は五千石を領した旗本大久保|豊後守《ぶんごのかみ》の屋敷があった処で、六間堀に面した東裏には明治の末頃にも崩れかかった武家長屋がそのまま残っていた。またその辺から堀向《ほりむこう》の林町三丁目の方へ架っていた小橋を大久保橋と称《とな》えていた。
 これらの事はその頃A氏の語ったところであるが、その後わたくしは武鑑《ぶかん》を調べて、嘉永三年頃に大久保豊後守|忠恕《ただよし》という人が幕府の大目附になっていた事を知った。明治八、九年頃までの東京地図には、江戸時代の地図と変りなく、この処に大久保氏の屋敷のあった事がしるされている。
 かつてわたくしが籾山庭後《もみやまていご》君と共に月刊雑誌『文明』なるものを編輯していた時、A氏は深川夜烏という別号を署して、大久保長屋の事をかいた文を寄せられた。今その一節を見るに、
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湯灌場大久保の屋敷跡。何故湯灌場大久保と言うのか。それは長慶寺の湯灌場と大久保の屋敷と鄰接している所から起った名である。露地《ろじ》を入って右側の五軒長屋の二軒目、そこが阿久《おひさ》の家で、即ち私の寄寓す
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