川町《とみかわちょう》や東元町《ひがしもとまち》の陋巷《ろうこう》を横ぎって、再び小名木川の本流に合している。下谷《したや》の三味線堀が埋立てられた後、市内の堀割の中でこの六間堀ほど暗惨にして不潔な川はあるまい。わが亡友A氏は明治四十二年頃から三、四年の間、この六間堀に沿うた東森下町《ひがしもりしたちょう》の裏長屋に住んでいたことがあった。
 東森下町には今でも長慶寺という禅寺《ぜんでら》がある。震災|前《ぜん》、境内には芭蕉翁の句碑と、巨賊《きょぞく》日本左衛門《にっぽんざえもん》の墓があったので人に知られていた。その頃には電車通からも横町の突当りに立っていた楼門が見えた。この寺の墓地と六間堀の裏河岸との間に、平家建《ひらやだて》の長屋が秩序なく建てられていて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横《たてよこ》に通じていた。長屋の人たちはこの処を大久保《おおくぼ》長屋、また湯灌場《ゆかんば》大久保と呼び、路地の中のやや広い道を、馬《うま》の背新道《せしんみち》と呼んでいた。道の中央が高く、家に接した両側が低くなっていた事から、馬の背に譬《たと》えたので。歩き馴れぬものはきまって足駄《あしだ
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