育って、昔ながらの迷信と宿習との世界に安じていたものばかり。洋服をきて髯など生《はや》したものはお廻りさんでなければ、救世軍のような、全く階級を異にし、また言語風俗をも異にした人たちだと思込んでいた。
 わたくしは夜烏子がこの湯灌場大久保の裏長屋に潜《ひそ》みかくれて、交りを文壇にもまた世間にも求めず、超然として独りその好む所の俳諧の道に遊んでいたのを見て、江戸固有の俳人|気質《かたぎ》を伝承した真の俳人として心から尊敬していたのである。子は初め漢文を修め、そのまさに帝国大学に入ろうとした年、病を得て学業を廃したが、数年の後、明治三十五、六年頃から学生の受験案内や講義録などを出版する書店に雇《やと》われ、二十円足らずの給料を得て、十年一日の如く出版物の校正をしていたのである。俳句のみならず文章にも巧みであったが、人に勧められても一たびも文を售《う》ろうとした事がなかった。同じ店に雇われていたものの中で、初め夜烏子について俳句のつくり方を学び、数年にして忽《たちまち》門戸を張り、俳句雑誌を刊行するようになった人があったが、夜烏子はこれを見て唯一笑するばかりで、その人から句を請《こ》われる時は快くこれを与えながら、更に報酬を受けなかった。
 夜烏子は山の手の町に居住している人たちが、意義なき体面に累《わずら》わされ、虚名のために齷齪《あくせく》しているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥に廉潔《れんけつ》で、また自由である事をよろこび、病余失意の一生をここに隠してしまったのである。或日一家を携えて、場末の小芝居《こしばい》を看《み》に行く日記の一節を見ると、夜烏子の人生観とまた併せてその時代の風俗とを窺うことができる。
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明治四十四年二月五日。今日は深川座へ芝居を見に行くので、店から早帰りをする。製本屋のお神《かみ》さんと阿久《おひさ》とを先に出懸けさせて、私は三十分ばかりして後から先になるように電車に乗った。すると霊岸町《れいがんちょう》の手前で、田舎丸出しの十八、九の色の蒼《あお》い娘が、突然|小間物店《こまものみせ》を拡《ひろ》げて、避ける間もなく、私の外出着の一張羅《いっちょうら》へ真正面《まとも》に浴せ懸けた。私は詮《せん》すべを失った。娘の兄らしい兵隊は無言で、親爺らしい百姓が頻《しきり》に詫びた。娘は俯向いてこそこそと降りた。癪《しゃく》に障《さわ》って忌々《いまいま》しいが叱り飛す張合もない。災難だと諦めた。乗り合わした他の連中は頻に私に同情して、娘とその伴《つれ》の図々しい間抜な態度を罵《ののし》った。飛沫《とばっちり》を受けたので、眉を顰《ひそ》めながら膝を拭いている婆さんや、足袋《たび》の先を汚された職人もいたが、一番迷惑したのは私であった。黒江《くろえ》町で電車を下りると、二人に逢った。今これこれだと阿久に話すと、人に歩かせて、自分は楽をしたものだから、その罰だと笑いながらも、汚れた羽織《はおり》の仕末には困った顔をした。幸いとお神さんの亭主の妹の家が八幡様《はちまんさま》の前だというので、そこへ行って羽織だけ摘《つま》み洗いをしてもらうことにして、その間寒さを堪えて公園の中で待っていた。芝居へ入って前の方の平土間《ひらどま》へ陣取る。出方《でかた》は新次郎と言って、阿久の懇意な男であった。一番目は「酒井の太鼓」で、栄升の左衛門、雷蔵の善三郎と家康、蝶昇の茶坊主と馬場、高麗三郎の鳥居、芝三松の梅ヶ枝などが重立《おもだ》ったものであった。道具の汚いのと、役者の絶句と、演芸中に舞台裏で大道具の釘を打つ音が台辞《せりふ》を邪魔することなぞは、他では余り見受けない景物である。寒い芝居小屋だ。それに土間で小児の泣く声と、立ち歩くのを叱る出方の尖《とが》り声とが耳障りになる。中幕の河庄では、芝三松の小春、雷蔵の治兵衛、高麗三郎の孫右衛門、栄升の太兵衛に蝶昇の善六。二番目は「河内山」で蝶昇が勤めた。雷蔵の松江侯と三千歳、高麗三郎の直侍《なおざむらい》などで、清元《きよもと》の出語りは若い女で、これは馬鹿に拙《まず》い。延久代という名取名《なとりな》を貰っている阿久は一々節廻しを貶《けな》した。捕物の場で打出し。お神さんの持って来た幸寿司で何も取らず、会計は祝儀を合せて二円二十三銭也。芝居の前でお神さんに別れて帰りに阿久と二人で蕎麦屋《そばや》へ入った。歩いて東森下町の家まで帰った時が恰度《ちょうど》夜の十二時。
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 かつて深川座のあった処は、震災後道路が一変しているので、今は活動館のあるあたりか、あるいは公設市場のあるあたりであるのか、たまたま散歩するわたくしには判然しない。
 むかしの黒江橋《くろえばし》は今の黒亀橋《くろかめばし》のあるあたりであろう。即ちむかし
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