閻魔堂橋《えんまどうばし》のあったあたりである。しかし今は寺院の堂宇も皆新しくなったのと、交通のあまりに繁激となったため、このあたりの町には、さして政策の興をひくべきものもなく、また人をして追憶に耽らせる余裕をも与えない。かつて明治座の役者たちと共に、電車通の心行寺《しんぎょうじ》に鶴屋南北《つるやなんぼく》の墓を掃《はら》ったことや、そこから程遠からぬ油堀の下流に、三角屋敷の址《あと》を尋ね歩いたことも、思えば十余年のむかしとなった。(三角屋敷は邸宅の址ではない。堀割の水に囲まれた町の一部が三角形をなしているので、その名を得たのである。)
 今日の深川は西は大川の岸から、東は砂町《すなまち》の境に至るまで、一木一草もない。焼跡の空地に生えた雑草を除けば、目に映ずる青いものは一ツもない。震災後に開かれた一直線の広い道路と、むかしから流れている幾筋の運河とが、際限なき焦土の上に建てられた臨時の建築物と仮小屋とのごみごみした間を縦横に貫き走っている処が、即ち深川だといえば、それで事は尽きてしまうのである。
 災後、新に開かれたセメント敷《じき》の大道《だいどう》は、黒亀橋から冬木町《ふゆきちょう》を貫き、仙台堀に沿うて走る福砂通《ふくさどおり》と称するもの。また清洲橋から東に向い、小名木川と並行して中川を渡る清砂通《きよさどおり》と称するもの。この二条の新道が深川の町を西から東へと走っている。また南北に通ずる新道にして電車の通らないものが三筋ある。これらの新道はそのいずれを歩いても、道幅が広く、両側の人家は低く小さく、処々に広漠たる空地《あきち》があるので、青空ばかりが限りなく望まれるが、目に入るものは浮雲の外には、遠くに架っている釣橋の鉄骨と瓦斯《ガス》タンクばかりで、鳶《とんび》や烏の飛ぶ影さえもなく、遠い工場の響が鈍く、風の音のように聞える。昼中《ひるなか》でも道行く人は途絶えがちで、たまたま走り過る乗合自動車には女車掌が眠そうな顔をして腰をかけている。わたくしは夕焼の雲を見たり、明月を賞したり、あるいはまた黙想に沈みながら漫歩するには、これほど好《よ》い道は他にない事を知った。それ以来下町へ用足しに出た帰りには、きまって深川の町はずれから砂町の新道路を歩くのである。
 歩きながら或日ふと思出したのは、ギヨーム・アポリネールの『坐せる女』と題する小説である。この小説の中に、かつてシャンパンユの平和なる田園に生れて巴里《パリー》の美術家となった一青年が、爆裂弾のために全村|尽《ことごと》く破滅したその故郷に遊び、むかしの静な村落が戦後一変して物質的文明の利器を集めた一新市街になっているのを目撃し、悲愁の情と共にまた一縷《いちる》の希望を感じ、時勢につれて審美の観念の変動し行くことを述べた深刻な一章がある。
 災後、東京の都市は忽ち復興して、その外観は一変した。セメントの新道路を逍遥して新しき時代の深川を見る時、おくれ走《ば》せながら、わたくしもまた旧時代の審美観から蝉脱《せんだつ》すべき時の来《きた》った事を悟らなければならないような心持もするのである。
 木場《きば》の町にはむかしのままの堀割が残っているが、西洋文字の符号をつけた亜米利加《アメリカ》松の山積《さんせき》せられたのを見ては、今日誰かこの処を、「伏見に似たり桃の花」というものがあろう。モーターボートの響を耳にしては、「橋台に菜の花さけり」といわれた渡場《わたしば》を思い出す人はない。かつて八幡宮の裏手から和倉町《わくらまち》に臨む油堀のながれには渡場の残っていた事を、わたくしは唯夢のように思返すばかりである。
 冬木町の弁天社は新道路の傍《かたわら》に辛くもその祉を留めている。しかし知十翁《ちじゅうおう》が、「名月や銭金いはぬ世が恋ひし。」の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう。(因《ちなみ》にいう。冬木町の名も一時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって、纔《わずか》に改称の禍《わざわい》を免れた。)
 冬木弁天の前を通り過ぎて、広漠たる福砂通《ふくさどおり》を歩いて行くと、やがて真直に仙台堀に沿うて、大横川《おおよこがわ》の岸に出る。仙台堀と大横川との二流が交叉《こうさ》するあたりには、更にこれらの運河から水を引入れた貯材池がそこ此処《ここ》にひろがっていて、セメントづくりの新しい橋は大小幾筋となく錯雑している。このあたりまで来ると、運河の水もいくらか澄んでいて、荷船《にぶね》の往来もはげしからず、橋の上を走り過るトラックも少く、水陸いずこを見ても目に入るものは材木と鉄管ばかり。材木の匂を帯びた川風の清凉なことが著しく感じられる。深川もむかし六万坪と称えられたこのあたりまで来
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