ると、案外空気の好い事が感じられるのである。
 崎川橋《さきかわばし》という新しいセメント造りの橋をわたった時、わたくしは向うに見える同じような橋を背景にして、炭のように黒くなった枯樹《かれき》が二本、少しばかり蘆《あし》のはえた水際から天を突くばかり聲え立っているのを見た。震災に焼かれた銀杏《いちょう》か松の古木であろう。わたくしはこの巨大なる枯樹のあるがために、単調なる運河の眺望が忽ち活気を帯び、彼方《かたた》の空にかすむ工場の建物を背景にして、ここに暗欝なる新しい時代の画図をつくり成している事を感じた。セメントの橋の上を材木置場の番人かと思われる貧し気な洋服姿の男が、赤児《あかご》を背負った若い女と寄添いながら歩いて行く。その跫音《あしおと》がその姿と共に、橋の影を浮べた水の面《おもて》をかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す……。わたくしは何となくシャルパンチエーの好んで作曲するオペラでもきくような心持になることができた。
 セメントの大通は大横川を越えた後、更に東の方に走って十間川を横切り砂町《すなまち》の空地に突き入っている。砂町は深川のはずれのさびしい町と同じく、わたくしが好んで蒹葭《けんか》の間に寂寞を求めに行くところである。折があったら砂町の記をつくりたいと思っている。
[#地から2字上げ]甲戌《こうじゅつ》十一月記



底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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