川町《とみかわちょう》や東元町《ひがしもとまち》の陋巷《ろうこう》を横ぎって、再び小名木川の本流に合している。下谷《したや》の三味線堀が埋立てられた後、市内の堀割の中でこの六間堀ほど暗惨にして不潔な川はあるまい。わが亡友A氏は明治四十二年頃から三、四年の間、この六間堀に沿うた東森下町《ひがしもりしたちょう》の裏長屋に住んでいたことがあった。
 東森下町には今でも長慶寺という禅寺《ぜんでら》がある。震災|前《ぜん》、境内には芭蕉翁の句碑と、巨賊《きょぞく》日本左衛門《にっぽんざえもん》の墓があったので人に知られていた。その頃には電車通からも横町の突当りに立っていた楼門が見えた。この寺の墓地と六間堀の裏河岸との間に、平家建《ひらやだて》の長屋が秩序なく建てられていて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横《たてよこ》に通じていた。長屋の人たちはこの処を大久保《おおくぼ》長屋、また湯灌場《ゆかんば》大久保と呼び、路地の中のやや広い道を、馬《うま》の背新道《せしんみち》と呼んでいた。道の中央が高く、家に接した両側が低くなっていた事から、馬の背に譬《たと》えたので。歩き馴れぬものはきまって足駄《あしだ》の横鼻緒《よこはなお》を切ってしまった。維新前は五千石を領した旗本大久保|豊後守《ぶんごのかみ》の屋敷があった処で、六間堀に面した東裏には明治の末頃にも崩れかかった武家長屋がそのまま残っていた。またその辺から堀向《ほりむこう》の林町三丁目の方へ架っていた小橋を大久保橋と称《とな》えていた。
 これらの事はその頃A氏の語ったところであるが、その後わたくしは武鑑《ぶかん》を調べて、嘉永三年頃に大久保豊後守|忠恕《ただよし》という人が幕府の大目附になっていた事を知った。明治八、九年頃までの東京地図には、江戸時代の地図と変りなく、この処に大久保氏の屋敷のあった事がしるされている。
 かつてわたくしが籾山庭後《もみやまていご》君と共に月刊雑誌『文明』なるものを編輯していた時、A氏は深川夜烏という別号を署して、大久保長屋の事をかいた文を寄せられた。今その一節を見るに、
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湯灌場大久保の屋敷跡。何故湯灌場大久保と言うのか。それは長慶寺の湯灌場と大久保の屋敷と鄰接している所から起った名である。露地《ろじ》を入って右側の五軒長屋の二軒目、そこが阿久《おひさ》の家で、即ち私の寄寓する家である。阿久はもと下谷《したや》の芸者で、廃《や》めてから私の世話になって二年の後、型《かた》ばかりの式を行って内縁の妻となったのである。右隣りが電話のボタンを拵《こしら》える職人、左隣がブリキ職。ブリキ職の女房は亭主の稼ぎが薄いので、煙突掃除だの、エンヤラコに出たりする。それで五人の子持である。お腹がふくれると、口が殖《ふ》える将来を案じて、出来ることなら流産《ながれ》てしまえば可《よ》いがと不養生のありたけをして、板の間にじかに坐ったり、出水《でみず》の時、股のあたりまである泥水の中を歩き廻ったりしたにもかかわらず、くりくりと太った丈夫な男の児が生れた。
私の家は二畳に四畳半の二間きりである。四畳半には長火鉢《ながひばち》、箪笥《たんす》が二棹《ふたさお》と机とが置いてある。それで、阿久と、お袋と、阿久の姉と四人住んでいるのである。その家へある日私の友達を十人ばかり招いて酒宴を催したのである。
先ず縁側《えんがわ》に呉座《ござ》を敷いた。四畳半へは毛布を敷いた。そして真中に食卓を据《す》えた。長火鉢は台所へ運んで、お袋と姉とは台所へ退却した。そして境界に葭戸《よしど》を立てた。二畳に阿久がいて、お銚子《ちょうし》だの煮物だのを運んだ。(略)さて当日の模様をざっと書いて見ると、酒の良いのを二升、そら豆の塩茄《しおゆで》に胡瓜《きゅうり》の香物《こうのもの》を酒の肴《さかな》に、干瓢《かんぴょう》の代りに山葵《わさび》を入れた海苔巻《のりまき》を出した。菓子折を注文して、それを長屋の軒別に配った。兄弟分が御世話になりますからとの口上を述べに何某が鹿爪《しかつめ》らしい顔で長屋を廻ったりした。すると長屋一同から返礼に、大皿に寿司を遣《よこ》した。唐紙《とうし》を買って来て寄せ書きをやる。阿久の三味線で何某が落人《おちうど》を語り、阿久は清心《せいしん》を語った。銘々の隠芸《かくしげい》も出て十一時まで大騒ぎに騒いだ。時は明治四十三年六月九日。
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 この時代には電車の中で職人が新聞をよむような事もなかったので、社会主義の宣伝はまだ深川の裏長屋には達していなかった。竹格子《たけごうし》の窓には朝顔の鉢が置いてあったり、風鈴《ふうりん》の吊されたところもあったほどで、向三軒両鄰《むこうさんげんりょうどな》り、長屋の人たちはいずれも東京の場末に生れ
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