《かた》に山王《さんのう》と氷川《ひかわ》の森が見えるので、冬の中《うち》西北の富士おろしが吹きつづくと、崖の竹藪や庭の樹《き》が物すごく騒ぎ立てる。窓の戸のみならず家屋を揺り動すこともある。季節と共に風の向も変って、春から夏になると、鄰近処《となりきんじょ》の家の戸や窓があけ放されるので、東南から吹いて来る風につれ、四方に湧起るラヂオの響は、朝早くから夜も初更《しょこう》に至る頃まで、わたくしの家を包囲する。これがために鐘の声は一時《ひとしきり》全く忘れられてしまったようになるが、する中《うち》に、また突然何かの拍子にわたくしを驚すのである。
この年月《としつき》の経験で、鐘の声が最もわたくしを喜ばすのは、二、三日荒れに荒れた木枯《こがら》しが、短い冬の日のあわただしく暮れると共に、ぱったり吹きやんで、寒い夜が一層寒く、一層静になったように思われる時、つけたばかりの燈火の下《もと》に、独り夕餉《ゆうげ》の箸《はし》を取上げる途端《とたん》、コーンとはっきり最初の一撞《ひとつ》きが耳元《みみもと》にきこえてくる時である。驚いて箸を持ったまま、思わず音のする彼方《かなた》を見返ると、底びかりのする神秘な夜の空に、宵《よい》の明星《みょうじょう》のかげが、たった一ツさびし気《げ》に浮いているのが見える。枯れた樹の梢に三日月のかかっているのを見ることもある。
やがて日の長くなることが、やや際立《きわだ》って知られる暮れがた。昼は既に尽きながら、まだ夜にはなりきらない頃、読むことにも書くことにも倦《う》み果てて、これから燈火《あかり》のつく夜になっても、何をしようという目当も楽しみもないというような時、ふと耳にする鐘の音《ね》は、机に頬杖をつく肱《ひじ》のしびれにさえ心付かぬほど、埒《らち》もないむかしの思出に人をいざなうことがある。死んだ友達の遺著など、あわてて取出し、夜のふけわたるまで読み耽けるのも、こんな時である。
若葉の茂りに庭のみならず、家の窓もまた薄暗く、殊に糠雨《ぬかあめ》の雫《しずく》が葉末から音もなく滴《したた》る昼過ぎ。いつもより一層遠く柔に聞えて来る鐘の声は、鈴木春信《すずきはるのぶ》の古き版画の色と線とから感じられるような、疲労と倦怠とを思わせるが、これに反して秋も末近く、一宵《ひとよさ》ごとにその力を増すような西風に、とぎれて聞える鐘の声は屈
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