家には当てはまらず。凡そ物事その道々によりて特別の修業あり。桜紙《さくらがみ》にて長羅宇《ながラウ》を掃除するは娼妓《しょうぎ》の特技にして素人《しろうと》に用なく、後門《こうもん》賄賂《わいろ》をすすむるは御用商人の呼吸にして聖人君子の知らざる所。豆腐々々と呼んで天秤棒《てんびんぼう》かつぐには肩より先に腰の工合《ぐあい》が肝腎《かんじん》なり。仕立屋となれば足の栂指《おやゆび》を働かせ、三味線引《しゃみせんひき》となれば茶椀の底にて人さし指を叩いて爪をかたくす。漢字は日本文明の進歩を阻害すといひたければいふもよし、在来の国語存するの限り文学に志すものは欧洲語と併せて漢文の素養をつくりたまへ。翻訳なんぞする時どれほど人より上手にやれるか物はためしぞかし。
一 小説といふ語はもと日本語にあらず、戯曲|院本《いんぽん》なぞいふも皆漢文より借り来《きた》れるもの。これだけにても日本の小説家たるもの欧洲語の外に漢文も少しはのぞいて置く必要あるべし。小説の語は張衡《ちょうこう》が『西京賦《せいけいふ》』に「小説九百本自虞初」〔小説 九百、本《もと》 虞初《ぐしょ》自《よ》りす〕といふに始り院本
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