ュージ』。ゾラの『坑夫ゼルミナル』。ブラスコ・イバネスの『五月の花』の如きをその一例とす。象徴詩家が散文の著作には怪異の体裁をとれるもの多し。これらは初学者の学びやすきものに非《あらざ》れば例外として言はず。
一 およそ小説の作風抒情を主とするもの、叙事に重《おもき》を置くもの、客観的《かっかんてき》なるもの、主観的なるもの、空想的なるもの、写実的なるもの、千態万様《せんたいばんよう》、一々説明しがたしといへども、その価値は唯作者の人格にありといはば一言《いちごん》にして尽くべし。
一 人誰しも若き時は感激しやすく、中年となれば感激次第に乏しくなる代り、世の中の事|明《あきらか》に見ゆるやうになるものなり。されば小説家たるものその年齢に従ひて書きたしと思ふものを書くがよし。文壇の風潮たとへば客観的小説を芸術の上乗《じょうじょう》なるものとなせばとて強《し》ひてこれに迎合《げいごう》する必要はなし。作者|輙《すなわ》ちおのれの柄《がら》になきものを書かんとするなかれ。さりとていつもいつも十八番《じゅうはちばん》の紋切形《もんきりがた》を繰返せといふにはあらず。人間|身体《からだ》の組織も七年ごとに変るといへば作者小成に安んぜず平素|研鑽《けんさん》怠ることなくんば人に言はるるより先に自分から不満足を感じ出し、作風は自然と変化し行くべし。
一 小説は人物の描写叙事叙景何事も説明に傾かぬやう心掛くべし。読む者をして知らず知らず編中の人物風景ありありと目に見るやうな思をなさしむる事、これ小説の本領なり。史伝は説明なり。小説は描写なり。
一 説明|七《しち》くどき時は肩が張り描写長たらしき時は欠伸《あくび》の種となる。いづれも上手とはいひがたし。筆を執るものここにおいてあるいは文勢を変じあるいは省略の法を取り、あるいは叙事の前後を顛倒《てんとう》せしめて人を飽かしめざらん事をつとむ。この呼吸は読書に創作にいろいろとこの道の経験をつむに従つて会得《えとく》するものなり。
一 史伝といへども終始説明の文体を以てのみするものならず、しばしば小説風の描写を交ふ。小説また徹頭徹尾描写をのみつづくるものにあらず、伝記めきたる説明かへつて簡古《かんこ》の功を奏することあり。落語講談時に他山《たさん》の石《いし》となすに足る。
一 小説|作法《さくほう》の中《うち》人物描写に次ぎて苦心すべきは叙景なり(対話は人物描写の一端と見るが故にここに言はず)小説中の叙景は常に人物と蜜接の関係を保たしむべし。その巧みなるものはかへつて直接に人物の説明をなすよりも効能ある事あり。アナトール・フランス作中しばしば見る処の学者の書斎庭園等の描写の如し。
一 叙景も外面の形より写さず内面より描く方法を取るべし。ハイカラに言へば絵画的たらんよりも音楽的たるべし。この処|即《すなわち》南画の筆法と見てよし。写生に出でて写生を離るる事なり。
一 写生を離れんと欲すればまづ写生に力《つと》むる事初学者の取るべき道なるべし。小説は万事に渉《わた》りて細心の注意を要するものなれば一人物を描かんとするや、まづその人物の活動すべき場面の中《うち》街路田園|等《とう》写生し得べき処は一応写生して置くがよし。筆にて記さずとも実地に観察して心に記憶すれば足るべし。或小説家|逗子《ずし》の海岸にて男女の相逢ふさまを描くや明月海の彼方《かなた》より浮び出で絵之島《えのしま》おぼろにかすみ渡りてなどと美しき景色をあしらひしに、読巧者《よみごうしゃ》の人これを見て逗子の地形東に山あり西に海ありその彼方より月の出《いづ》る理《り》なし。沈むの誤《あやまり》ならずやと言はれて言句《ごんく》につまりしとの話あり。写生を念頭に置けばかかる誤はおのづとなくなるなり。
一 小説かかんと思はば何がさて置き一日も早く仏蘭西《フランス》語を学びたまへ。但し手ほどきは日本人についてなす事|禁物《きんもつ》なり。暁星《ぎょうせい》学校の夜学にでも行きその国人についてなすべし。何事も手ほどきが肝腎なり。踊三味線などもくだらなき師匠につきて手ほどきしたるものはいやな癖つきその後はいかなる名人の弟子となるとも一度つきたる癖は一生直らぬものなりとぞ。日本人のとかく語学に不得手《ふえて》なるやうにいはるるは中学校にて日本の教師に英語の手ほどきされるがためなるべし。小学中学の恐るべきはこれだけにても知らるるなり。
一 小説家たらんとするもの辞典と首引《くびぴき》にて差支なければ一日も早くアンドレエ・ジイドの小説よむやうにしたまへかし。戦争以来多く新刊の洋書を手にせざれば近頃はいかなる新進作家の現れ出でしやおのれよくは知らねど、まづ新しき小説の模範としてはジイド、レニエーあたりの著作に、新しき戯曲の手本としてはポオル・クローデルあたりの
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