小説作法
永井荷風

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)画《え》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)洋画|手引草《てびきぐさ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
−−

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一 小説はいかにして作るものなるやどういふ風にして書《かく》ものなりやと問はるる人しばしばあり。これほど答へにくき問はなし。画《え》の道ならば『芥子園画伝《かいしえんがでん》』をそのままに説きもいづべく油画ならばまづ写生の仕方光線の取方絵具の調合なんど鴎外《おうがい》西崖《せいがい》両先生が『洋画|手引草《てびきぐさ》』にも記されたりと逃げもすべきに、小説かく道といひては原稿紙買ふ時西洋紙はよしたまへ、日本紙ならば反古《ほご》も押入の壁や古葛籠《ふるつづら》が張れて徳用とも答へがたく、さりとて万年筆は何じるしがよしともいひにくかるべし。
一 おのれいまだ一度《ひとたび》も小説家といふ看板かけた事はなけれど思へば二十年来くだらぬもの書きて売りしより、税務署にては文筆所得の税を取立て、毎年の弁疏《べんそ》も遂に聴入るる気色《けしき》なし。警視庁にては新聞図書検閲の役人|衆《しゅ》どうかすると葉書にておのれを呼出し小使に茶を持運ばせて、この小説は先生のお作ですなこの辺は少しどうも一般の読者には烈《はげ》しすぎるやうですこの次からは筆加減でとすつかり黒人扱《くろうとあつかい》なり。かうなつては遠慮も無用と先《まず》は宗匠家元《そうしょういえもと》の心意気にて小説のつくり方いかがとの愚問に対する愚答筆にまかせて書き出すといへどもこれ元より具眼《ぐがん》の士に示さんとするものならず。初学の人の手引ともならばなれかし。実をいへば税金を稼ぎいださん窮策なりかし。
一 小説は日常の雑談にもひとしきものなり。どういふ話が雑談なるや雑談は如何《いか》にしてなすべきものなりやと問はれなば誰《たれ》しも返事にこまるべし。世間の噂もはなしなり己《おのれ》が身の上愚痴も不平もはなしなり。日常身辺の事一として話の種ならざるはなし。然れども長屋の嚊《かか》が金棒《かなぼう》引くは聞くに堪《た》へず識者が茶話《さわ》にはおのづと聞いて身の戒《いましめ》となるもの多し。田舎者のはなしは七《しち》くどくして欠伸《あくび》の種となり江戸児《えどっこ》の早口は話の前後多くは顛倒《てんとう》してその意を得がたし。談話の善悪上品下品|下手《へた》上手《じょうず》はその人にあり。学ぶも得やすからず。小説の道またかくの如きか。
一 人|口《くち》あれば語る。人|情《じょう》あれば文をつくる。春|来《きた》つて花開き鳥歌ふに同じ。皆自然の事なり。これを究《きわ》むるの道今これを審美学《しんびがく》といふ。森先生が『審美綱領』『審美新説』を熟読せば事足るべし。仏蘭西《フランス》人ギヨオが学説また既に訳著あり。学者の説は皆聴くべし。月刊の文学雑誌新聞紙|等《とう》に掲載せらるる小説家また批評家の文芸論は悉《ことごと》く排斥して可なり。その何が故なるやを問ふなかれ。唯|蛇蝎《だかつ》の如く忌《い》み恐れよかし。
一 小説をかかんと志すものにおのづから二種の別あるが如し。その一は十七、八歳まだ中学に通ふ頃世に流布する小説を読み行く中《うち》自分もいつか小説かいて見たくなりて筆を執り初め、次第に興を得やがて学業の進むにつれ遂に確乎としてこの道に志すに至るもの。その二は既に高等専門の学業をも卒《お》へ志|定《さだま》りて後感ずる事ありて小説を作るものなり。桜痴福地《おうちふくち》先生は世の変遷に経綸《けいりん》の志を捨て遂に操觚《そうこ》の人となりぬ。柳浪広津《りゅうろうひろつ》先生は三十を越えて後《のち》初《はじめ》て小説を書きし由《よし》聞きたる事あり。夏目漱石《なつめそうせき》先生は帝国大学教授を辞して小説家となりし事人の知る所なり。然るにわれらが如きは二十《はたち》前後日常の書簡文も満足に(今でもさうですが)書けぬ中早くも小説の筆とりぬ。唯書いて見たかつたといふまでの事、同級の生徒が写真ヴァイオリン銃猟《じゅうりょう》などに凝《こ》りしも同然当人だけは大《おおい》に志あるやうに思ひしかど、大人《おとな》から見ればやはり少年の遊戯に過ぎざりしなるべし。されば仲間のものにはその文才を惜しまれながら中ほどより止めてしまふ人もままあるならひなり。
一 その始め少年の遊戯より起りたればとて後年その人の作を軽《かろん》ずるにも当らず、成人の後|大《おおい》に感憤して書いたものなりとてまたあながち尊ぶには及ばぬなり。善悪は唯その著述につきて見るべきなり。
一 好きこそ
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング