込なきものなり。柳里恭がいはゆる「爪先の向けやう」わるきものにして千里を行くものにあらず。
一 論より証拠は今日文壇の泰斗《たいと》と仰がるる人々を見よかし。森先生の弱冠にして『読売新聞』に投書せられしは今のいはゆる地方青年投書家の投書と同じからず。紅葉《こうよう》露伴《ろはん》樗牛《ちょぎゅう》逍遥《しょうよう》の諸家初めより一家の見識気品を持して文壇に臨《のぞ》みたり。紅葉門下の作者に至りても今名をなす人々皆然り。
一 学歴なんぞはどうでもよきものなれど今日の大学は明治中頃の尋常中学校位の程度のものになり下《さが》りたれば、まづ何事をなすにも学士もしくはそれに相応する教育を受けてより後《のち》の事なり。さるを学士の位を得たりとて安心するやうな人は話にならず。学問芸術はますます究《きわ》むるに従ひていよいよ疑を生ずるものなり。疑を抱かざる人はその道未だ進まざるものと見て誤《あやまり》なし。
一 おのれかつて井川滋《いかわしげる》君と『三田文学』を編輯せし頃青年無名の作家のその著作を公《おおやけ》にせん事を迫り来れるもの頻々《ひんぴん》応接に遑《いとま》あらざるほどなるに、一人《いちにん》として草稿の辞句なぞ正したまはれといふものはなかりけり。これ浅学の余七年間大学部教授|並《ならび》に主筆の重職にありながら別に耻《はじ》一つかかずお茶を濁《にご》せし所以《ゆえん》ぞかし。道場破りの宮本武蔵《みやもとむさし》来らず、内弟子ばかりに取巻かれて先生々々といはれてゐれば剣術使も楽なもの。但しかういふ先生芝居ではいつも敵役《かたきやく》。華魁《おいらん》にはもてませぬテ。
一 おのれが観る処にして誤らずんば今日の青年作家は雑誌に名を出《いだ》さんがために制作するもの活字になる見込なければ制作の興会《きょうかい》は湧かぬと覚し。
一 どうやら隠居の口小言《くちこごと》のみ多くなりて肝腎の小説|作法《さくほう》はお留守になりぬ。初学者もし小説にでも書いて見たらばと思ひつく事ありたらばまづその思ふがままにすらすらと書いて見るがよし。しかして後|添刪《てんさく》推敲《すいこう》してまづ短篇小説十篇長篇小説二篇ほどは小手調《こてしらべ》筆ならしと思ひて公にする勿《なか》れ。その中《うち》自分にても一番よしと思ふものを取り丁寧に清書してもし私淑《ししゅく》する先輩あらばつてを求めてその人のもとに至り教を乞ふべし。菓子折なぞは持参するに及ばず。唯草稿を丁寧に清書して教を乞ふ事礼儀の第一と心得べし。小説のことなれば悉《ことごと》く楷書《かいしょ》にて書くにも及ばじ、草行《そうぎょう》の書体を交《まじ》ふるも苦しからねど好加減《いいかげん》の崩《くず》し方《かた》は以ての外《ほか》なり。疑しき所は『草訣弁疑《そうけつべんぎ》』等の書について自《みずか》ら正せ。
一 小説は独創を尚《たっと》ぶものなれば他人の作を読みてそれより思ひつきたる事はまづ避くるがよし。おのれの経験より実地に感じたる事を小説にすべし。腹案成りて後他人の作を参考とするはさして害なからん。
一 小説の価値は篇中人物の描写|如何《いかん》によりて定まる。作者いかほど高遠の理想を抱きたりとて人物の描写|拙《つたな》ければ唯理論のみとなりて小説にはならず。人物の描写は筆先《ふでさき》の仕事にあらず実地の観察と空想の力とありて初めてなさるるものなり。
一 脚色の変化に重《おもき》を置き人物の描写を軽んずるものはいはゆる通俗小説にして小説の高尚なるものにあらず。人物の描写を骨子《こっし》とすれば脚色はおのづからできて来るものなり。
一 人物描写の法一個人の性格生涯をそのままモデルとなす事あり。甲乙丙丁数人の性格を取捨按排《しゅしゃあんばい》してここに特別の人物を作出《つくりだ》す事あり。別に定法《ていほう》なし。唯何事も内面より観察するを必要とす。外面より観察してこれを描写するは易《やす》く内面よりするは難《かた》し。ゾラの小説は人物の描写とかく外部よりする傾《かたむき》を憾《うら》みとす。フローベルが『マダム・ボワリー』。トルストイの『アンナ・カレニナ』。アナトール・フランスの『紅百合《べにゆり》』。オクターブ・ミルボーが『宣教師の叔父』。アンリイ・ド・レニエーが『貴族ブレオーの交遊』なぞいふ作は各《おのおの》作風を異《こと》にすといへどもいづれも主として内面より人物の描写に力《つと》めたる名著なり。
一 ここに人物を主とせざる小説にしてその価値前条述ぶる所のものに劣らざるものあり。即《すなわち》都市|山川《さんせん》寺院の如き非情のものを捉へ来りてこれに人物を配するが如き体《てい》を取れるものあるいは群集一団体の人間を主となしかへつて個人を次となせるが如きものあり。ローダンバックの『廃市ブリ
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