妾宅
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伴《ともな》って

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|倦《う》み

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Gou^t〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]

 どうしても心から満足して世間一般の趨勢に伴《ともな》って行くことが出来ないと知ったその日から、彼はとある堀割のほとりなる妾宅《しょうたく》にのみ、一人|倦《う》みがちなる空想の日を送る事が多くなった。今の世の中には面白い事がなくなったというばかりならまだしもの事、見たくでもない物の限りを見せつけられるのに堪《た》えられなくなったからである。進んでそれらのものを打壊そうとするよりもむしろ退《しりぞ》いて隠れるに如《し》くはないと思ったからである。何も彼《か》も時世時節《ときよじせつ》ならば是非もないというような川柳式《せんりゅうしき》のあきらめが、遺伝的に彼の精神を訓練さしていたからである。身過《みす》ぎ世過《よす》ぎならば洋服も着よう。生れ落ちてから畳の上に両足を折曲《おりま》げて育った揉《ねじ》れた身体《からだ》にも、当節の流行とあれば、直立した国の人たちの着る洋服も臆面《おくめん》なく採用しよう。用があれば停電しがちの電車にも乗ろう。自動車にも乗ろう。園遊会にも行こう。浪花節《なにわぶし》も聞こう。女優の鞦韆《ぶらんこ》も下からのぞこう。沙翁劇《さおうげき》も見よう。洋楽入りの長唄《ながうた》も聞こう。頼まれれば小説も書こう。粗悪な紙に誤植だらけの印刷も結構至極と喜ぼう。それに対する粗忽干万《そこつせんばん》なジゥルナリズムの批評も聞こう。同業者の誼《よし》みにあんまり黙っていても悪いようなら議論のお相手もしよう。けれども要するに、それはみんな身過ぎ世過ぎである。川竹の憂き身をかこつ哥沢《うたざわ》の糸より細き筆の命毛《いのちげ》を渡世《とせい》にする是非なさ……オット大変忘れたり。彼というは堂々たる現代文士の一人《いちにん》、但し人の知らない別号を珍々先生という半可通《はんかつう》である。かくして先生は現代の生存競争に負けないため、現代の人たちのする事は善悪無差別に一通りは心得ていようと努めた。その代り、そうするには何処か人知れぬ心の隠家《かくれが》を求めて、時々|生命《いのち》の洗濯をする必要を感じた。宿《やど》なしの乞食でさえも眠るにはなお橋の下を求めるではないか。厭《いや》な客衆《きゃくしゅ》の勤めには傾城《けいせい》をして引過《ひけす》ぎの情夫《まぶ》を許してやらねばならぬ。先生は現代生活の仮面をなるべく巧《たくみ》に被《かぶ》りおおせるためには、人知れずそれをぬぎ捨てべき楽屋《がくや》を必要としたのである。昔より大隠《たいいん》のかくれる町中《まちなか》の裏通り、堀割に沿う日かげの妾宅は即ちこの目的のために作られた彼が心の安息所であったのだ。

[#7字下げ]二[#「二」は中見出し]

 妾宅は上《あが》り框《かまち》の二畳を入れて僅か四間《よま》ほどしかない古びた借家《しゃくや》であるが、拭込《ふきこ》んだ表の格子戸《こうしど》と家内《かない》の障子《しょうじ》と唐紙《からかみ》とは、今の職人の請負《うけおい》仕事を嫌い、先頃《さきごろ》まだ吉原《よしわら》の焼けない時分、廃業する芸者家の古建具《ふるたてぐ》をそのまま買い取ったものである。二階の一間の欄干《らんかん》だけには日が当るけれど、下座敷《したざしき》は茶の間も共に、外から這入《はい》ると人の顔さえちょっとは見分かぬほどの薄暗さ。厠《かわや》へ出る縁先《えんさき》の小庭に至っては、日の目を見ぬ地面の湿《し》け切っていること気味わるいばかりである。しかし先生はこの薄暗く湿《しめ》った家をば、それがためにかえってなつかしく、如何にも浮世に遠く失敗した人の隠家らしい心持ちをさせる事を喜んでいる。石菖《せきしょう》の水鉢を置いた※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓《れんじまど》の下には朱の溜塗《ためぬり》の鏡台がある。芸者が弘《ひろ》めをする時の手拭の包紙で腰張した壁の上には鬱金《うこん》の包みを着た三味線が二挺《にちょう》かけてある。大きな如輪《じょりん》の長火鉢《ながひばち》の傍《そば》にはきまって猫が寝ている。襖《ふすま》を越した次の座敷には薄暗い上にも更に薄暗い床《とこ》の間《ま》に、極彩色《ごくさいしき》の豊国《とよくに》の女姿が、石州流《せきしゅうりゅう》の生花《いけばな》のかげから、過ぎた時代の風俗を見せている。片隅には「命《いのち》」という字を傘《かさ》の形のように繋《つな》いだ赤い友禅《ゆうぜん》の蒲団《ふとん》をかけた置炬燵《おきごたつ》。その後《うしろ》には二枚折の屏風《びょうぶ》に、今は大方《おおかた》故人となった役者や芸人の改名披露やおさらいの摺物《すりもの》を張った中に、田之助半四郎《たのすけはんしろう》なぞの死絵《しにえ》二、三枚をも交《ま》ぜてある。彼が殊更《ことさら》に、この薄暗い妾宅をなつかしく思うのは、風鈴《ふうりん》の音《ね》凉しき夏の夕《ゆうべ》よりも、虫の音《ね》冴《さ》ゆる夜長よりも、かえって底冷《そこびえ》のする曇った冬の日の、どうやら雪にでもなりそうな暮方《くれがた》近く、この一間《ひとま》の置炬燵に猫を膝にしながら、所在《しょざい》なげに生欠伸《なまあくび》をかみしめる時であるのだ。彼は窓外《まどそと》を呼び過ぎる物売りの声と、遠い大通りに轟き渡る車の響と、厠の向うの腐りかけた建仁寺垣《けんにんじがき》を越して、隣りの家《うち》から聞え出すはたき[#「はたき」に傍点]の音をば何というわけもなく悲しく聞きなす。お妾《めかけ》はいつでもこの時分には銭湯に行った留守のこと、彼は一人|燈火《あかり》のない座敷の置炬燵に肱枕《ひじまくら》して、折々は隙漏《すきも》る寒い川風に身顫《みぶる》いをするのである。珍々先生はこんな処にこうしていじけ[#「いじけ」に傍点]ていずとも、便利な今の世の中にはもっと暖かな、もっと明《あかる》い賑《にぎや》かな場所がいくらもある事を能《よ》く承知している。けれどもそういう明い晴やかな場所へ意気揚々と出しゃばるのは、自分なぞが先に立ってやらずとも、成功主義の物欲しい世の中には、そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が、あり余って困るほどある事を思返すと、先生はむしろ薄寒い妾宅の置炬燵にかじりついているのが、涙の出るほど嬉しく淋しく悲しく同時にまた何ともいえぬほど皮肉な得意を感ずるのであった。表の河岸通《かしどおり》には日暮と共に吹起る空《から》ッ風《かぜ》の音が聞え出すと、妾宅の障子はどれが動くとも知れず、ガタリガタリと妙に気力の抜けた陰気な音を響かす。その度々に寒さはぞくぞく襟元《えりもと》へ浸《し》み入る。勝手の方では、いっも居眠りしている下女が、またしても皿小鉢を破《こわ》したらしい物音がする。炭団《たどん》はどうやらもう灰になってしまったらしい。先生はこういう時、つくづくこれが先祖代々日本人の送り過越《すご》して来た日本の家の冬の心持だと感ずるのである。宝井其角《たからいきかく》の家にもこれと同じような冬の日が幾度《いくたび》となく来たのであろう。喜多川歌麿《きたがわうたまろ》の絵筆持つ指先もかかる寒さのために凍《こお》ったのであろう。馬琴《ばきん》北斎《ほくさい》もこの置炬燵の火の消えかかった果敢《はか》なさを知っていたであろう。京伝《きょうでん》一九《いっく》春水《しゅんすい》種彦《たねひこ》を始めとして、魯文《ろぶん》黙阿弥《もくあみ》に至るまで、少くとも日本文化の過去の誇りを残した人々は、皆おのれと同じようなこの日本の家の寒さを知っていたのだ。しかして彼らはこの寒さと薄暗さにも恨むことなく反抗することなく、手錠をはめられ板木《はんぎ》を取壊《とりこわ》すお上《かみ》の御成敗《ごせいばい》を甘受していたのだと思うと、時代の思想はいつになっても、昔に代らぬ今の世の中、先生は形ばかり西洋模倣の倶楽部《クラブ》やカフェーの媛炉《だんろ》のほとりに葉巻をくゆらし、新時代の人々と舶来の火酒《ウイスキー》を傾けつつ、恐れ多くも天下の御政事を云々《うんぬん》したとて何になろう。われわれ日本の芸術家の先天的に定められた運命は、やはりこうした置炬燵の肱枕より外《ほか》にはないというような心持になるのであった。

[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]

 人種の発達と共にその国土の底に深くも根ざした思想の濫觴《らんしょう》を鑑《かんが》み、幾時代の遺伝的修養を経たる忍従棄権の悟《さと》りに、われ知らず襟《えり》を正《ただ》す折《おり》しもあれ。先生は時々かかる暮れがた近く、隣の家《うち》から子供のさらう稽古の三味線が、かえって午飯過《ひるめしす》ぎの真昼よりも一層|賑《にぎや》かに聞え出すのに、眠るともなく覚めるともなく、疲れきった淋しい心をゆすぶらせる。家《うち》の中はもう真暗になっているが、戸外《おもて》にはまだ斜にうつろう冬の夕日が残っているに違いない。ああ、三味線の音色《ねいろ》。何という果敢《はかな》い、消えも入りたき哀れを催させるのであろう。かつてそれほどに、まだ自己を知らなかった得意の時分に、先生は長たらしい小説を書いて、その一節に三味線と西洋音楽の比較論なぞを試みた事を思返す。世の中には古社寺《こしゃじ》保存の名目の下《もと》に、古社寺の建築を修繕するのではなく、かえってこれを破壊もしくは俗化する山師があるように、邦楽の改良進歩を企てて、かえって邦楽の真生命を殺してしまう熱心家のある事を考え出す。しかし先生はもうそれらをば余儀ない事であると諦めた。こんな事をいって三味線の議論をする事が、已に三味線のためにはこの上もない侮辱《ぶじょく》なのである。江戸音曲《えどおんぎょく》の江戸音曲たる所以《ゆえん》は時勢のために見る影なく踏みにじられて行く所にある。時勢と共に進歩して行く事の出来ない所にある。然《しか》も一思《ひとおも》いに潔《いさぎよ》く殺され滅されてしまうのではなく、新時代の色々な野心家の汚《きたな》らしい手にいじくり廻されて、散々|慰《なぐさ》まれ辱《はずか》しめられた揚句《あげく》、嬲《なぶ》り殺しにされてしまう傷《いたま》しい運命。それから生ずる無限の哀傷が、即ち江戸音曲の真生命である。少くともそれは二十世紀の今日《こんにち》洋服を着て葉巻を吸いながら聞くわれわれの心に響くべき三味線の呟《つぶや》きである。さればこれを改良するというのも、あるいはこれを撲滅するというのも、いずれにしても滅び行く三味線の身に取っては同じであるといわねばならぬ。珍々先生が帝国劇場において『金毛狐《きんもうこ》』の如き新曲を聴く事を辞さないのは、つまり灰の中から宝石を捜出《さがしだ》すように、新しきものの処々にまだそのまま残されている昔のままの節附《ふしづけ》を拾出す果敢い楽しさのためである。同時に擬古派の歌舞伎座において、大薩摩《おおざつま》を聞く事を喜ぶのは、古きものの中にも知らず知らず浸み込んだ新しい病毒に、遠からず古きもの全体が腐って倒れてしまいそうな、その遣瀬《やるせ》ない無常の真理を悟り得るがためである。思えばかえって不思議にも、今日という今日まで生残った江戸音曲の哀愁をば、先生はあたかも廓《くるわ》を抜け出で、唯《ただ》一人闇の夜道を跣足《はだし》のままにかけて行く女のようだと思っている。たよりの恋人に出逢った処で、末永
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