く添い遂げられるというではない。互に手を取って南無阿弥陀仏と死ぬばかり。もし駕籠《かご》かきの悪者に出逢ったら、庚申塚《こうしんづか》の藪《やぶ》かげに思うさま弄ばれた揚句、生命《いのち》あらばまた遠国《えんごく》へ売り飛ばされるにきまっている。追手《おって》に捕《つか》まって元の曲輪《くるわ》へ送り戻されれば、煙管《キセル》の折檻《せっかん》に、またしても毎夜の憂きつとめ。死ぬといい消えるというが、この世の中にこの女の望み得べき幸福の絶頂なのである。と思えば先生の耳には本調子も二上《にあが》りも三下《さんさが》りも皆この世は夢じゃ諦《あきら》めしゃんせ諦めしゃんせと響くのである。されば隣りで唄《うた》う歌の文句の「夢とおもひて清心《せいしん》は。」といい「頼むは弥陀の御《お》ン誓ひ、南無阿弥陀仏々々々々々々。」というあたりの節廻しや三味線の手に至っては、江戸音曲中の仏教的思想の音楽的表現が、その芸術的価値においてまさに楽劇『パルシフヮル』中の例えば「聖金曜日」のモチイブなぞにも比較し得べきもののように思われるのであった。

[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]

 諦めるにつけ悟るにつけ、さすがはまだ凡夫《ぼんぷ》の身の悲しさに、珍々先生は昨日《きのう》と過ぎし青春の夢を思うともなく思い返す。ふとしたことから、こうして囲《かこ》って置くお妾《めかけ》の身の上や、馴初《なれそ》めのむかしを繰返して考える。お妾は無論芸者であった。仲之町《なかのちょう》で一時《いちじ》は鳴《なら》した腕。芸には達者な代り、全くの無筆《むひつ》である。稽古本《けいこぼん》で見馴れた仮名より外には何にも読めない明盲目《あきめくら》である。この社会の人の持っている諸有《あらゆ》る迷信と僻見《へきけん》と虚偽と不健康とを一つ残らず遺伝的に譲り受けている。お召《めし》の縞柄《しまがら》を論ずるには委《くわ》しいけれど、電車に乗って新しい都会を一人歩きする事なぞは今だに出来ない。つまり明治の新しい女子教育とは全く無関係な女なのである。稽古唄の文句によって、親の許さぬ色恋は悪い事であると知っていたので、初恋の若旦那とは生木《なまき》を割《さ》く辛《つら》い目を見せられても、ただその当座泣いて暮して、そして自暴酒《やけざけ》を飲む事を覚えた位のもの、別に天も怨《うら》まず人をも怨まず、やがて周囲から強《しい》られるがままに、厭《いや》な男にも我慢して身をまかした。いやな男への屈従からは忽《たちま》ち間夫《まぶ》という秘密の快楽を覚えた。多くの人の玩弄物《もてあそびもの》になると同時に、多くの人を弄んで、浮きつ沈みつ定めなき不徳と淫蕩《いんとう》の生涯の、その果《はて》がこの河添いの妾宅に余生を送る事になったのである。深川《ふかがわ》の湿地に生れて吉原《よしわら》の水に育ったので、顔の色は生れつき浅黒い。一度髪の毛がすっかり抜けた事があるそうだ。酒を飲み過ぎて血を吐いた事があるそうだ。それから身体《からだ》が生れ代ったように丈夫になって、中音《ちゅうおん》の音声《のど》に意気な錆《さび》が出来た。時々頭が痛むといっては顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》へ即功紙《そっこうし》を張っているものの今では滅多に風邪《かぜ》を引くこともない。突然お腹《なか》へ差込《さしこ》みが来るなどと大騒ぎをするかと思うと、納豆《なっとう》にお茶漬を三杯もかき込んで平然としている。お参りに出かける外《ほか》、芝居へも寄席《よせ》へも一向《いっこう》に行きたがらない。朝寝が好きで、髪を直すに時間を惜しまず、男を相手に卑陋《びろう》な冗談をいって夜ふかしをするのが好きであるが、その割には世帯持《しょたいもち》がよく、借金のいい訳がなかなか巧《うま》い。年は二十五、六、この社会の女にしか見られないその浅黒い顔の色の、妙に滑《すべ》っこく磨き込まれている様子は、丁度多くの人手にかかって丁寧に拭き込まれた桐の手あぶりの光沢《つや》に等しく、いつも重そうな瞼《まぶた》の下に、夢を見ているようなその眼色《めいろ》には、照りもせず曇りも果てぬ晩春の空のいい知れぬ沈滞の味が宿っている――とでもいいたい位に先生は思っているのである。実際今の世の中に、この珍々先生ほど芸者の好きな人、賤業婦の病的美に対して賞讃の声を惜しまない人は恐らくあるまい。彼は何故《なにゆえ》に賤業婦を愛するかという理由を自《みずか》ら解釈して、道徳的及び芸術的の二条に分った。道徳的にはかつて『見果《みは》てぬ夢』という短篇小説中にも書いた通り、特種の時代とその制度の下《もと》に発生した花柳界全体は、最初から明白《あからさま》に虚偽を標榜しているだけに、その中《うち》にはかえって虚偽ならざるもののある事を嬉しく思うのであった。つまり正当なる社会の偽善を憎む精神の変調が、幾多の無理な訓練修養の結果によって、かかる不正暗黒の方面に一条の血路を開いて、茲《ここ》に僅なる満足を得ようとしたものと見て差支《さしつかえ》ない。あるいはまたあまりに枯淡なる典型に陥《おちい》り過ぎてかえって真情の潤《うるお》いに乏しくなった古来の道徳に対する反感から、わざと悪徳不正を迎えて一時の快哉《かいさい》を呼ぶものとも見られる。要するに厭世的なるかかる詭弁的《きべんてき》精神の傾向は破壊的なるロマンチズムの主張から生じた一種の病弊である事は、彼自身もよく承知しているのである。承知していながら、決して改悛《かいしゅん》する必要がないと思うほど、この病弊を芸術的に崇拝しているのである。されば賤業婦の美を論ずるには、極端に流れたる近世の芸術観を以てするより外はない。理性にも同情にも訴うるのでなく、唯《ただ》過敏なる感覚をのみ基礎として近世の極端なる芸術を鑑賞し得ない人は、彼からいえば到底縁なき衆生《しゅじょう》であるのだ。女の嫌いな人に強《しい》て女の美を説き教える必要はない。酒に害あるはいわずと知れた話である。然《しか》もその害毒を恐れざる多少の覚悟と勇気とがあって、初めて酒の徳を知り得るのである。伝聞《きくなら》く北米合衆国においては亜米利加印甸人《アメリカインデアン》に対して絶対に火酒《ウイスキー》を売る事を禁ずるは、印甸人の一度《ひとたび》酔えば忽《たちま》ち狂暴なる野獣と変ずるがためである。印甸人の神経は浅酌微酔の文明的訓練なきがためである。修養されたる感覚の快楽を知らざる原始的健全なる某帝国の社会においては、婦人の裸体画を以て直《ただち》に国民の風俗を壊乱するものと認めた。南|阿弗利加《アフリカ》の黒奴《こくど》は獣《けもの》の如く口を開いて哄笑《こうしょう》する事を知っているが、声もなく言葉にも出さぬ美しい微笑《ほほえみ》によって、いうにいわれぬ複雑な内心の感情を表白する術《じゅつ》を知らないそうである。健全なる某帝国の法律が恋愛と婦人に関する一切の芸術をポルノグラフィイと見なすのも思えば無理もない次第である――議論が思わず岐路《わきみち》へそれた――妾宅の主人たる珍々先生はかくの如くに社会の輿論《よろん》の極端にも厳格枯淡偏狭単一なるに反して、これはまた極端に、凡そ売色という一切の行動には何ともいえない悲壮の神秘が潜《ひそ》んでいると断言しているのである。冬の闇夜《やみよ》に悪病を負う辻君《つじぎみ》が人を呼ぶ声の傷《いたま》しさは、直ちにこれ、罪障深き人類の止《や》みがたき真正《まこと》の嘆きではあるまいか。仏蘭西《フランス》の詩人 Marcel《マルセル》 Schwob《シュオッブ》 はわれわれが悲しみの淵に沈んでいる瞬間にのみ、唯の一夜、唯の一度われわれの目の前に現われて来るという辻君。二度巡り会おうとしても最《も》う会う事の出来ないという神秘なる辻君の事を書いた。「あの女たちはいつまでもわれわれの傍《そば》にいるものではない。あまりに悲しい身の上の恥かしく、長く留《とどま》っているに堪えられないからである。あの女たちはわれわれが涙に暮れているのを見ればこそ、面と向ってわれわれの顔を見上げる勇気があるのだ。われわれはあの女たちを哀れと思う時にのみ、彼女《かのおんな》たちを了解し得るのだ。」といっている。近松の心中物《しんじゅうもの》を見ても分るではないか。傾城《けいせい》の誠が金で面《つら》を張る圧制な大尽《だいじん》に解釈されようはずはない。変る夜ごとの枕に泣く売春婦の誠の心の悲しみは、親の慈悲妻の情《なさけ》を仇《あだ》にしたその罪の恐しさに泣く放蕩児の身の上になって、初めて知り得るのである。「傾城に誠あるほど買ひもせず」と川柳子《せんりゅうし》も已に名句を吐いている。珍々先生は生れ付きの旋毛曲《つむじまが》り、親に見放され、学校は追出され、その後は白浪物《しらなみもの》の主人公のような心持になってとにかくに強いもの、えばる[#「えばる」に傍点]ものが大嫌いであったから、自然と巧《たくま》ずして若い時分から売春婦には惚《ほ》れられがちであった。しかしこういう業《ごう》つくばりの男の事故《ことゆえ》、芸者が好きだといっても、当時|新橋《しんばし》第一流の名花と世に持囃《もてはや》される名古屋種《なごやだね》の美人なぞに目をくれるのではない。深川の堀割の夜深《よふけ》、石置場のかげから這出《はいだ》す辻君にも等しい彼《か》の水転《みずてん》の身の浅間《あさま》しさを愛するのである。悪病をつつむ腐《くさ》りし肉の上に、爛《ただ》れたその心の悲しみを休ませるのである。されば河添いの妾宅にいる先生のお妾も要するに世間並の眼を以て見れば、少しばかり甲羅《こうら》を経たるこの種類の安物たるに過ぎないのである。

[#7字下げ]五[#「五」は中見出し]

 隣りの稽古唄《けいこうた》はまだ止《や》まぬ。お妾《めかけ》は大分化粧に念が入《い》っていると見えてまだ帰らない。先生は昔の事を考えながら、夕飯時《ゆうめしどき》の空腹《くうふく》をまぎらすためか、火の消えかかった置炬燵《おきごたつ》に頬杖《ほおづえ》をつき口から出まかせに、
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※[#歌記号、1−3−28]変り行く末の世ながら「いにしへ」を、「いま」に忍ぶの恋草《こいぐさ》や、誰れに摘《つ》めとか繰返し、うたふ隣のけいこ唄、宵はまちそして恨みて暁と、聞く身につらきいもがりは、同じ待つ間の置炬燵、川風寒き※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓《れんじまど》、急ぐ足音ききつけて、かけた蒲団の格子外《こうしそと》、もしやそれかとのぞいて見れば、河岸《かし》の夕日にしよんぼりと、枯れた柳の影ばかり。
[#ここで字下げ終わり]
 まだ帰って来ぬ。先生はもう一ツ、胸にあまる日頃の思いをおなじ置炬燵にことよせて、
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※[#歌記号、1−3−28]|春水《しゅんすい》が手錠はめられ海老蔵《えびぞう》は、お江戸かまひの「むかし」なら、わしも定めし島流し、硯《すずり》の海の波風に、命の筆の水馴竿《みなれざお》、折れてたよりも荒磯の、道理引つ込む無理の世は、今もむかしの夢のあと、たづねて見やれ思ひ寝の、手枕《たまくら》寒し置炬燵。
[#ここで字下げ終わり]
とやらかした。小走《こばし》りの下駄《げた》の音。がらりと今度こそ格子が明《あ》いた。お妾は抜衣紋《ぬきえもん》にした襟頸《えりくび》ばかり驚くほど真白に塗りたて、浅黒い顔をば拭き込んだ煤竹《すすだけ》のようにひからせ、銀杏返《いちょうがえ》しの両鬢《りょうびん》へ毛筋棒《けすじ》を挿込んだままで、直《す》ぐと長火鉢《ながひばち》の向うに据えた朱の溜塗《ためぬり》の鏡台の前に坐った。カチリと電燈を捻《ね》じる響と共に、黄《きいろ》い光が唐紙《からかみ》の隙間にさす。先生はのそのそ置炬燵から次の間へ這出《はいだ》して有合《ありあ》う長煙管《ながギセル》で二、三|服《ぷく》煙草を吸いつつ、余念もなくお妾の化粧する様子を眺めた。先生は女が髪を直す時の千姿
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