仕度をしてくれる時のみではない。長火鉢の傍《そば》にしょんぼりと坐って汚《よご》れた壁の上にその影を映させつつ、物静に男の着物を縫っている時、あるいはまた夜《よる》の寝床に先ず男を寝かした後《のち》、その身は静に男の羽織着物を畳んで角帯《かくおび》をその上に載せ、枕頭《まくらもと》の煙草盆の火をしらべ、行燈《あんどう》の燈心《とうしん》を少しく引込め、引廻した屏風《びょうぶ》の端《はし》を引直してから、初めて片膝を蒲団の上に載せるように枕頭に坐って、先ず一服した後《あと》の煙管《キセル》を男に出してやる――そういう時々先生はお妾に対して口には出さない無限の哀傷と無限の感謝を覚えるのである。無限の哀傷は恐ろしい専制時代の女子教育の感化が遺伝的に下町の無教育な女の身に伝《つたわ》っている事を知るがためである。無限の感謝は新時代の企てた女子教育の効果が、専制時代のそれに比して、徳育的にも智育的にも実用的にも審美的にも一つとして見るべきもののない実例となし得るがためである。無筆のお妾は瓦斯《ガス》ストーヴも、エプロンも、西洋綴《せいようとじ》の料理案内という書物も、凡《すべ》て下手《へた》の道
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