いわなければならない。この特徴を形造った大天才は、やはり凡《すべ》ての日本的固有の文明を創造した蟄居《ちっきょ》の「江戸人《えどじん》」である事は今更|茲《ここ》に論ずるまでもない。もし以上の如き珍々先生の所論に対して不同意な人があるならば、請《こ》う試みに、旧習に従った極めて平凡なる日本人の住家《じゅうか》について、先ずその便所なるものが縁側《えんがわ》と座敷の障子、庭などと相俟《あいま》って、如何なる審美的価値を有しているかを観察せよ。母家《おもや》から別れたその小さな低い鱗葺《こけらぶき》の屋根といい、竹格子の窓といい、入口《いりくち》の杉戸といい、殊に手を洗う縁先の水鉢《みずばち》、柄杓《ひしゃく》、その傍《そば》には極って葉蘭《はらん》や石蕗《つわぶき》などを下草《したくさ》にして、南天や紅梅の如き庭木が目隠しの柴垣を後《うしろ》にして立っている有様、春の朝《あした》には鶯がこの手水鉢《ちょうずばち》の水を飲みに柄杓の柄《え》にとまる。夏の夕《ゆうべ》には縁の下から大《おおき》な蟇《ひきがえる》が湿った青苔《あおごけ》の上にその腹を引摺《ひきず》りながら歩き出る。家の主人《あるじ》が石菖《せきしょう》や金魚の水鉢を縁側に置いて楽しむのも大抵はこの手水鉢の近くである。宿の妻が虫籠や風鈴《ふうりん》を吊《つる》すのもやはり便所の戸口近くである。草双紙の表紙や見返しの意匠なぞには、便所の戸と掛手拭《かけてぬぐい》と手水鉢とが、如何に多く使用されているか分らない。かくの如く都会における家庭の幽雅なる方面、町中《まちなか》の住いの詩的情趣を、専《もっぱ》ら便所とその周囲の情景に仰いだのは実際日本ばかりであろう。西洋の家庭には何処に便所があるか決して分らぬようにしてある。習慣と道徳とを無視する如何に狂激なる仏蘭西《フランス》の画家といえども、まだ便所の詩趣を主題にしたものはないようである。そこへ行くと、江戸の浮世絵師は便所と女とを配合して、巧みなる冒険に成功しているのではないか。細帯しどけなき寝衣姿《ねまきすがた》の女が、懐紙《かいし》を口に銜《くわえ》て、例の艶《なまめ》かしい立膝《たてひざ》ながらに手水鉢の柄杓から水を汲んで手先を洗っていると、その傍《そば》に置いた寝屋《ねや》の雪洞《ぼんぼり》の光は、この流派の常《つね》として極端に陰影の度を誇張した区劃の中に夜《よる》の小雨《こさめ》のいと蕭条《しめやか》に海棠《かいどう》の花弁《はなびら》を散す小庭の風情《ふぜい》を見せている等は、誰でも知っている、誰でも喜ぶ、誰でも誘《いざな》われずにはいられぬ微妙な無声の詩ではないか。敢えて絵空事《えそらごと》なんぞと言う勿《なか》れ。とかくに芝居を芝居、画《え》を画とのみして、それらの芸術的情趣は非常な奢侈《しゃし》贅沢《ぜいたく》に非《あら》ざれば決して日常生活中には味われぬもののように独断している人たちは、容易に首肯《しゅこう》しないかも知れないが、便所によって下町風な女姿が一層の嬌艶《きょうえん》を添え得る事は、何も豊国《とよくに》や国貞《くにさだ》の錦絵《にしきえ》ばかりには限らない。虚言《うそ》と思うなら目にも三坪の佗住居《わびずまい》。珍々先生は現にその妾宅においてそのお妾によって、実地に安上りにこれを味ってござるのである。

[#7字下げ]九[#「九」は中見出し]

 今の世は唯《ただ》さえ文学美術をその弊害からのみ観察して宛《さなが》ら十悪七罪の一ツの如く厭《いと》い恐れている時、ここに日常の生活に芸術味を加えて生存の楽しさを深くせよといわば、それこそ世を害し国を危くするものと老人連はびっくりするであろう。尤《もっと》も国民的なる大芸術を興《おこ》すには個人も国家もそれ相当に金と力と時間の犠牲を払わなければならぬ。万が一しくじった場合には損害ばかりが残って危険かも知れぬ。日本のような貧乏な国ではいかに思想上価値があるからとてもしワグナアの如き楽劇一曲をやや完全に演ぜんなぞと思立《おもいた》たば米や塩にまで重税を課して人民どもに塗炭《とたん》の苦しみをさせねばならぬような事が起るかも知れぬ。しかしそれはまずそれとして何もそんなに心配せずとも或種類の芸術に至っては決して二宮尊徳《にのみやそんとく》の教と牴触《ていしょく》しないで済むものが許多《いくら》もある。日本の御老人連は英吉利《イギリス》の事とさえいえば何でもすぐに安心して喜ぶから丁度よい。健全なるジョン・ラスキンが理想の流れを汲んだ近世装飾美術の改革者ウィリアム・モオリスという英吉利人の事を言おう。モオリスは現代の装飾|及《および》工芸美術の堕落に対して常に、趣味 〔Gou^t〕 と贅沢 Luxe とを混同し、また美 〔Beaute'〕 と富貴 Richesse
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