@とを同一視せざらん事を説き、趣味を以て贅沢に代えよと叫んでいる。モオリスはその主義として芸術の専門的偏狭を憎みあくまでその一般的鑑賞と実用とを欲したために、時にはかえって極端過激なる議論をしているが、しかしその言う処は敢て英国のみならず、殊にわが日本の社会なぞに対してはこの上もない教訓として聴かれべきものが尠《すくな》くない。一例を挙ぐれば、現代一般の芸術に趣味なき点は金持も貧乏人もつまりは同じであるという事から、モオリスは世のいわゆる高尚優美なる紳士にして伊太利亜《イタリヤ》、埃及《エジプト》等を旅行して古代の文明に対する造詣《ぞうけい》深く、古美術の話とさえいえば人に劣らぬ熱心家でありながら、平然として何の気にする処もなく、請負普請《うけおいぶしん》の醜劣俗悪な居室《きょしつ》の中《なか》に住んでいる人があると慨嘆している。これは知識ある階級の人すら家具及び家内装飾等の日常芸術に対して、一向に無頓着である事を痛罵《つうば》したものである。わが日本の社会においてもまた同様。書画骨董と称する古美術品の優秀清雅と、それを愛好するとか称する現代紳士富豪の思想及生活とを比較すれば、誰れか唖然《あぜん》たらざるを得んや。しかして茲《ここ》に更に一層唖然たらざるを得ざるは新しき芸術新しき文学を唱《とな》うる若き近世人の立居振舞《たちいふるまい》であろう。彼らは口に伊太利亜《イタリヤ》復興期の美術を論じ、仏国近世の抒情詩を云々《うんぬん》して、芸術即ち生活、生活即ち美とまでいい做《な》しながらその言行の一致せざる事むしろ憐むべきものがある。看《み》よ。彼らは己れの容貌と体格とに調和すべき日常の衣服の品質|縞柄《しまがら》さえ、満足には撰択し得ないではないか。或者は代言人《だいげんにん》の玄関番の如く、或者は歯医者の零落《おちぶれ》の如く、或者は非番巡査の如く、また或者は浪花節《なにわぶし》語りの如く、壮士役者の馬の足の如く、その外見は千差万様なれども、その褌《ふんどし》の汚さ加減はいずれもさぞやと察せられるものばかりである。彼らはまた己れが思想の伴侶たるべき机上の文房具に対しても何らの興味も愛好心もなく、卑俗の商人が売捌《うりさば》く非美術的の意匠を以て、更に意とする処がない。彼らは単に己れの居室を不潔乱雑にしている位ならまだしもの事である。公衆のために設けられたる料理屋の座敷に上《あが》っては、掛物と称する絵画と置物と称する彫刻品を置いた床《とこ》の間《ま》に、泥だらけの外套《がいとう》を投げ出し、掃き清めたる小庭に巻煙草の吸殻を捨て、畳の上に焼け焦《こが》しをなし、火鉢の灰に啖《たん》を吐くなぞ、一挙一動いささかも居室、家具、食器、庭園等の美術に対して、尊敬の意も愛惜の念も何にもない。軍人か土方《どかた》の親方ならばそれでも差支《さしつかえ》はなかろうが、いやしくも美と調和を口にする画家文士にして、かくの如き粗暴なる生活をなしつつ、毫《ごう》も己れの芸術的良心に恥《はず》る事なきは、実《げ》にや怪しともまた怪しき限りである。さればこれらの心なき芸術家によりて新に興さるる新しき文学、新しき劇、新しき絵画、新しき音楽が如何にも皮相的にして精神|気魄《きはく》に乏しきはむしろ当然の話である。当節の文学雑誌の紙質の粗悪に植字《しょくじ》の誤り多く、体裁の卑俗な事も、単に経済的事情のためとのみはいわれまい……。
 閑話休題《あだしごとはさておきつ》。妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲丹焼《うにやき》が出来上り、それからお取り膳《ぜん》の差しつ押えつ、まことにお浦山吹《うらやまぶ》きの一場《いちじょう》は、次の巻《まき》の出づるを待ち給えといいたいところであるが、故あってこの後《あと》は書かず。読者|諒《りょう》せよ。
[#地から2字上げ]明治四十五年四月



底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
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