て、遂には浮瀬《うかむせ》がなくなる。」というかも知れぬ。もし浮瀬なく、強い者のために沈められ、滅《ほろぼ》されてしまうものであったならば、それはいわゆる月に村雲《むらくも》、花に嵐の風情《ふぜい》。弱きを滅す強き者の下賤《げせん》にして無礼野蛮なる事を証明すると共に、滅される弱き者のいかほど上品で美麗であるかを証明するのみである。自己を下賤醜悪にしてまで存在を続けて行く必要が何処にあろう。潔《いさぎ》よく落花の雪となって消《きゆ》るに如《し》くはない。何に限らず正当なる権利を正当なりなぞと主張する如きは聞いた風《ふう》な屁理窟《へりくつ》を楯《たて》にするようで、実に三百代言的《さんびゃくだいげんてき》、新聞屋的、田舎議員的ではないか。それよりか、身に覚えなき罪科《つみとが》も何の明しの立てようなく哀れ刑場の露と消え……なんテいう方が、何となく東洋的なる固有の残忍非道な思いをさせてかえって痛快ではないか。青山原宿あたりの見掛けばかり門構えの立派な貸家の二階で、勧工場式《かんこうばしき》の椅子テーブルの小道具よろしく、女子大学出身の細君が鼠色になったパクパクな足袋《たび》をはいて、夫の不品行を責め罵るなぞはちょっと輸入的ノラらしくて面白いかも知れぬが、しかし見た処の外観からして如何にも真底《しんそこ》からノラらしい深みと強みを見せようというには、やはり髪の毛を黄《きいろ》く眼を青くして、成ろう事なら言葉も英語か独逸語《ドイツご》でやった方がなお一層よさそうに思われる。そもそも日本の女の女らしい美点――歩行に不便なる長い絹の衣服《きもの》と、薄暗い紙張りの家屋と、母音《ぼいん》の多い緩慢な言語と、それら凡《すべ》てに調和して動かすことの出来ない日本的女性の美は、動的ならずして静止的でなければならぬ。争ったり主張したりするのではなくて苦しんだり悩んだりする哀れ果敢《はかな》い処にある。いかほど悲しい事|辛《つら》い事があっても、それをば決して彼《か》のサラ・ベルナアルの長台詞《ながぜりふ》のようには弁じ立てず、薄暗い行燈《あんどう》のかげに「今頃は半七《はんしち》さん」の節廻しそのまま、身をねじらして黙って鬱込《ふさぎこ》むところにある。昔からいい古した通り海棠《かいどう》の雨に悩み柳の糸の風にもまれる風情《ふぜい》は、単に日本の女性美を説明するのみではあるまい。日本という庭園的の国土に生ずる秩序なき、淡泊なる、可憐なる、疲労せる生活及び思想の、弱く果敢き凡ての詩趣を説明するものであろう。

[#7字下げ]八[#「八」は中見出し]

 然り、多年の厳しい制度の下《もと》にわれらの生活は遂に因襲的に活気なく、貧乏臭くだらしなく、頼りなく、間の抜けたものになったのである。その堪《た》えがたき裏淋《うらさび》しさと退屈さをまぎらすせめてもの手段は、不可能なる反抗でもなく、憤怒怨嗟《ふんぬえんさ》でもなく、ぐっとさばけて、諦《あきら》めてしまって、そしてその平々凡々極まる無味単調なる生活のちょっとした処に、ちょっとした可笑味《おかしみ》面白味を発見して、これを頓智的な極めて軽い芸術にして嘲《あざけ》ったり笑ったりして戯《たわむ》れ遊ぶ事である。桜さく三味線の国は同じ専制国でありながら支那や土耳古《トルコ》のように金と力がない故|万代不易《ばんだいふえき》の宏大なる建築も出来ず、荒凉たる沙漠や原野がないために、孔子《こうし》、釈迦《しゃか》、基督《キリスト》などの考え出したような宗教も哲学もなく、また同じ暖い海はありながらどういう訳か希臘《ギリシヤ》のような芸術も作らずにしまった。よし一つや二つ何か立派などっしり[#「どっしり」に傍点]した物があったにしても、古今に通じて世界第一無類|飛切《とびき》りとして誇るには足りないような気がする。然らば何をか最も無類飛切りとしようか。貧乏臭い間の抜けた生活のちょっとした処に可笑味《おかしみ》面白味を見出して戯れ遊ぶ俳句、川柳、端唄《はうた》、小噺《こばなし》の如き種類の文学より外には求めても求められまい。論より証拠、先ず試みに『詩経』を繙《ひもと》いても、『唐詩選』、『三体詩』を開いても、わが俳句にある如き雨漏りの天井、破《やぶ》れ障子《しょうじ》、人馬鳥獣の糞《ふん》、便所、台所などに、純芸術的な興味を托した作品は容易に見出されない。希臘《ギリシヤ》羅馬《ローマ》以降|泰西《たいせい》の文学は如何ほど熾《さかん》であったにしても、いまだ一人《いちにん》として我が俳諧師|其角《きかく》、一茶《いっさ》の如くに、放屁や小便や野糞《のぐそ》までも詩化するほどの大胆を敢《あえ》てするものはなかったようである。日常の会話にも下《しも》がかった事を軽い可笑味《ユウモア》として取扱い得るのは日本文明固有の特徴と
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