生と背戻《はいれい》するに及んで真の味《あじわい》を生ずるのだ。けれども其処まで進もうというには、妻あり子あり金あり位ある普通人には到底薄気味わるくて出来るものではない。そこで自然《おのず》と、物には専門家《くろうと》と素人《しろうと》の差別が生ずるのだと、珍々先生は自己の廃頽趣味に絶対の芸術的価値と威信とを附与して、聊《いささ》か得意の感をなし、荒《すさ》みきった生涯の、せめてもの慰藉《なぐさめ》にしようと試みるのであったが、しかし何となくその身の行末|空恐《そらおそろ》しく、ああ人間もこうなってはもうおしまいだ。滋養に富んだ牛肉とお行儀のいい鯛の塩焼を美味のかぎりと思っている健全な朴訥《ぼくとつ》な無邪気な人たちは幸福だ。自分も最《も》う一度そういう程度まで立戻る事が出来たとしたら、どんなに万々歳なお目出度《めでた》かりける次第であろう……。惆悵《ちゅうちょう》として盃《さかずき》を傾くる事|二度《ふたた》び三度《みた》び。唯《と》見《み》ればお妾は新しい手拭をば撫付《なでつ》けたばかりの髪の上にかけ、下女まかせにはして置けない白魚《しらうお》か何かの料理を拵《こしら》えるため台所の板の間に膝をついて頻《しきり》に七輪《しちりん》の下をば渋団扇《しぶうちわ》であおいでいる。

[#7字下げ]七[#「七」は中見出し]

 何たる物哀れな美しい姿であろう。夕化粧の襟足|際立《きわだ》つ手拭の冠《かぶ》り方、襟付の小袖《こそで》、肩から滑り落ちそうなお召《めし》の半纏《はんてん》、お召の前掛、しどけなく引掛《ひっかけ》に結んだ昼夜帯《ちゅうやおび》、凡て現代の道徳家をしては覚えず眉を顰《ひそ》めしめ、警察官をしては坐《そぞろ》に嫌疑の眼《まなこ》を鋭くさせるような国貞振《くにさだぶ》りの年増盛《としまざか》りが、まめまめしく台所に働いている姿は勝手口の破れた水障子、引窓の綱、七輪《しちりん》、水瓶《みずがめ》、竈《かまど》、その傍《そば》の煤《すす》けた柱に貼《は》った荒神様《こうじんさま》のお札《ふだ》なぞ、一体に汚らしく乱雑に見える周囲の道具立《どうぐだて》と相俟《あいま》って、草双紙《くさぞうし》に見るような何という果敢《はかな》い佗住居《わびずまい》の情調、また哥沢《うたざわ》の節廻しに唄い古されたような、何という三絃的情調を示すのであろう。先生はお妾が食事の仕度をしてくれる時のみではない。長火鉢の傍《そば》にしょんぼりと坐って汚《よご》れた壁の上にその影を映させつつ、物静に男の着物を縫っている時、あるいはまた夜《よる》の寝床に先ず男を寝かした後《のち》、その身は静に男の羽織着物を畳んで角帯《かくおび》をその上に載せ、枕頭《まくらもと》の煙草盆の火をしらべ、行燈《あんどう》の燈心《とうしん》を少しく引込め、引廻した屏風《びょうぶ》の端《はし》を引直してから、初めて片膝を蒲団の上に載せるように枕頭に坐って、先ず一服した後《あと》の煙管《キセル》を男に出してやる――そういう時々先生はお妾に対して口には出さない無限の哀傷と無限の感謝を覚えるのである。無限の哀傷は恐ろしい専制時代の女子教育の感化が遺伝的に下町の無教育な女の身に伝《つたわ》っている事を知るがためである。無限の感謝は新時代の企てた女子教育の効果が、専制時代のそれに比して、徳育的にも智育的にも実用的にも審美的にも一つとして見るべきもののない実例となし得るがためである。無筆のお妾は瓦斯《ガス》ストーヴも、エプロンも、西洋綴《せいようとじ》の料理案内という書物も、凡《すべ》て下手《へた》の道具立《どうぐだて》なくして、巧に甘《うま》いものを作る。それと共に四季折々の時候に従って俳諧的詩趣を覚えさせる野菜魚介の撰択に通暁している。それにもかかわらず私はもともと賤しい家業をした身体《からだ》ですからと、万事に謙譲であって、いかほど家庭をよく修め男に満足と幸福を与えたからとて、露ほどもそれを己れの功としてこれ見よがしに誇る心がない。今時《いまどき》の女学校出身の誰々さんのように、夫の留守に新聞雑誌記者の訪問をこれ幸い、有難からぬ御面相の写真まで取出して「わらわの家庭」談などおっぱじめるような事は決してない。かく口汚く罵るものの先生は何も新しい女権主義《フェミニズム》を根本から否定しているためではない。婦人参政権の問題なぞもむしろ当然の事としている位である。しかし人間は総じて男女の別なく、いかほど正しい当然な事でも、それをば正当なりと自分からは主張せずに出しゃばらずに、何処までも遠慮深くおとなしくしている方がかえって奥床《おくゆか》しく美しくはあるまいか。現代の新婦人連は大方これに答えて、「そんなお人好《ひとよし》な態度を取っていたなら増々《ますます》権利を蹂躙《じゅうりん》され
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