事を知らなかったが、築地の路地裏にそろそろ芸者の車の出入しかける頃、突然唖々子が来訪して、蠣殻町《かきがらちょう》の勤先からやむをえず雪中歩いて来た始末を語った。その頃唖々子は毎夕新聞社の校正係長になっていたのである。
「この間の小説はもう出来上ったか。」と唖々子はわたしに導かれて、電車通の鰻屋《うなぎや》宮川へ行く途《みち》すがらわたしに問いかけた。
「いや、あの小説は駄目だ。文学なんぞやる今の新しい女はとても僕には描けない。何だか作りものみたような気がして、どうも人物が活躍しない。」
宮川の二階へ上って、裏窓の障子《しょうじ》を開けると雪のつもった鄰の植木屋の庭が見える一室に坐るが否や、わたしは縷々《るる》として制作の苦心を語りはじめた。唖々子は時々長い頤《あご》をしゃくりながら、空腹《すきっぱら》に五、六杯|引掛《ひっか》けたので、忽《たちま》ち微醺《びくん》を催した様子で、「女の文学者のやる演説なんぞ、わざわざ聴きに行かないでも大抵様子はわかっているじゃないか。講釈師見て来たような虚言《うそ》をつき。そこが芸術の芸術たる所以《ゆえん》だろう。」
「それでも一度は実地の所を見て置かないと、どうも安心が出来ないんだ。一体、小説なんぞ書こうという女はどんな着物を着ているんだか、ちょっと見当がつかない。まさか誰も彼もまがいの大嶋と限ったわけでもなかろうからね。」
「僕にも近頃|流行《はや》るまがい物の名前はわからない。贋物《にせもの》には大正とか改良とかいう形容詞をつけて置けばいいんだろう。」と唖々子は常に杯《さかずき》を放《は》なさない。
「ああいう人たちのはく下駄《げた》は大抵|籐表《とうおもて》の駒下駄《こさげた》か知ら。後がへって郡部の赤土が附着《くっつ》いていないといけまいね。鼻緒《はたお》のゆるんでいるとこへ、十文《ともん》位の大きな足をぐっと突込んで、いやに裾《すそ》をぱっぱっとさせて外輪に歩くんだね。」
「それから、君、イとエの発音がちがっていなくッちゃいけないぜ。電車の中で小説を読んでいるような女の話を聞いて見たまえ。まず十中の九は田舎者《いなかもの》だよ。」
「僕は近頃東京の言葉はだんだん時勢に適しなくなって来るような心持がするんだ。普通選挙だの労働問題だの、いわゆる時事に関する論議は、田舎|訛《なまり》がないとどうも釣合がわるい。垢抜《あかぬ》けのした東京の言葉じゃ内閣|弾劾《だんがい》の演説も出来まいじゃないか。」
「そうとも。演説ばかりじゃない。文学も同じことだな。気分だの気持だのと何処の国の託だかわからない言葉を使わなくっちゃ新しく聞えないからね。」
唖々子はかつて硯友社《けんゆうしゃ》諸家の文章の疵累《しるい》を指※[#「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2−13−57]したように、当世人の好んで使用する流行語について、例えば発展[#「発展」に丸傍点]、共鳴[#「共鳴」に丸傍点]、節約[#「節約」に丸傍点]、裏切る[#「裏切る」に丸傍点]、宣伝[#「宣伝」に丸傍点]というが如き、その出所の多くは西洋語の翻訳に基くものにして、吾人《ごじん》の耳に甚《はなはだ》快《こころよか》らぬ響を伝うるものを列挙しはじめた。
「そういう妙な言葉は大抵東京にいる田舎者のこしらえた言葉だ。そういう言葉が流行するのは、昔から使い馴れた言葉のある事を知らない人間が多くなった結果だね。この頃の若い女はざっと雨が降ってくるのを見ても、あらしもよい[#「あらしもよい」に丸傍点]の天気だとは言わない。低気圧だとか、暴風雨だとか言うよ。道をきくと、車夫のくせに、四辻の事を十字街だの、それから約一丁先だのと言うよ。ちょいと向の御稲荷《おいなり》さまなんていう事は知らないんだ。御話にゃならない。大工や植木屋で、仕事をしたことを全部完成ですと言った奴があるよ。銭勘定《ぜにかんじょう》は会計、受取は請求というのだったな。」
唖々子の戯《たわむる》るる[#「戯《たわむる》るる」はママ]が如く、わたしはやがて女中に会計なるものを命じて、倶《とも》に陶然として鰻屋の二階を下りると、晩景から電車の通らない築地の街は、見渡すかぎり真白《まっしろ》で、二人のさしかざす唐傘《からかさ》に雪のさらさらと響く音が耳につくほど静であった。わたしは一晩泊って行くように勧めたが、平素健脚を誇っている唖々子は「なに。」と言って、酔に乗じて本郷の家に帰るべく雪を踏んで築地橋の方へと歩いて行った。
三
同じ年の五月に、わたしがその年から数えて七年ほど前に書いた『三柏葉樹頭夜嵐《みつかしわこずえのよあらし》』という拙劣なる脚本が、偶然帝国劇場女優劇の二《に》の替《かわり》に演ぜられた。わたしが帝国劇場の楽屋に出入したのはこの時が始めてである
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