十日の菊
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)山茶花《さざんか》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近年|徒《いたずら》

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(例)※[#「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2−13−57]
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       一

 庭の山茶花《さざんか》も散りかけた頃である。震災後家を挙げて阪地に去られた小山内《おさない》君がぷらとん社の主人を伴い、倶《とも》に上京してわたしの家を訪《おとな》われた。両君の来意は近年|徒《いたずら》に拙《せつ》を養うにのみ力《つと》めているわたしを激励して、小説に筆を執らしめんとするにあったらしい。
 わたしは古机のひきだしに久しく二、三の草稿を蔵していた。しかしいずれも凡作見るに堪《た》えざる事を知って、稿《こう》半《なかば》にして筆を投じた反古《ほご》に過ぎない。この反古を取出して今更|漉返《すきかえ》しの草稿をつくるはわたしの甚《はなはだ》忍びない所である。さりとて旧友の好意を無にするは更に一層忍びがたしとする所である。
 窮余の一策は辛うじて案じ出された。わたしは何故久しく筐底《きょうてい》の旧稿に筆をつぐ事ができなかったかを縷陳《るちん》して、纔《わずか》に一時の責《せめ》を塞《ふさ》ぐこととした。題して『十日の菊』となしたのは、災後|重陽《ちょうよう》を過ぎて旧友の来訪に接した喜びを寓するものと解せられたならば幸である。自ら未成の旧稿について饒舌《じょうぜつ》する事の甚しく時流に後《おく》れたるが故となすも、また何の妨《さまたげ》があろう。

       二

 まだ築地本願寺側の僑居《きょうきょ》にあった時、わたしは大に奮励して長篇の小説に筆をつけたことがあった。その題も『黄昏』と命じて、発端およそ百枚ばかり書いたのであるが、それぎり筆を投じて草稿を机の抽斗《ひきだし》に突き込んでしまった。その後現在の家に移居してもう四、五年になる。その間に抽斗の草稿は一枚二枚と剥ぎ裂かれて、煙管《キセル》の脂《やに》を拭う紙捻《こより》になったり、ランプの油壺やホヤを拭う反古紙になったりして、百枚ほどの草稿は今既に幾枚をも余さなくなった。風雨一過するごとに電燈の消えてしまう今の世に旧時代の行燈《あんどう》とランプとは、家に必須《ひっす》の具たることをわたしはここに一言して置こう。
 わたしは何故百枚ほどの草稿を棄ててしまったかというに、それはいよいよ本題に進入《はい》るに当って、まず作中の主人公となすべき婦人の性格を描写しようとして、わたしは遽《にわか》にわが観察のなお熟していなかった事を知ったからである。わたしは主人公とすべき或婦人が米国の大学を卒業して日本に帰った後、女流の文学者と交際し神田青年会館に開かれる或婦人雑誌主催の文芸講演会に臨《のぞ》み一場《いちじょう》の演説をなす一段に至って、筆を擱《お》いて歎息した。
 初めわたしはさして苦しまずに、女主人公の老父がその愛嬢の帰朝を待つ胸中を描き得たのは、維新前後に人と為った人物の性行については、とにかく自分だけでは安心のつく程度まで了解し得るところがあったからである。これに反して当時のいわゆる新しい女の性格感情については、どことなく霧中に物を見るような気がしてならなかった。わたしは小説たる事を口実として、観察の不備を補うに空想を以てする事の制作上|甚《はなはだ》危険である事を知っている。それがため適当なるモデルを得るの日まで、この制作を中止しようと思い定めた。
 わたしはいかなる断篇たりともその稿を脱すれば、必《かならず》亡友|井上唖々《いのうえああ》子を招き、拙稿を朗読して子の批評を聴くことにしていた。これはわたしがまだ文壇に出ない時分からの習慣である。
 唖々子は弱冠の頃|式亭三馬《しきていさんば》の作と斎藤緑雨《さいとうりょくう》の文とを愛読し、他日二家にも劣らざる諷刺家たらんことを期していた人で、他人の文を見てその病弊を指※[#「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2−13−57]《してき》するには頗《すこぶ》る妙《みょう》を得ていた。一葉《いちよう》女史の『たけくらべ』には「ぞかし」という語が幾個あるかと数え出した事もあれば、紅葉山人《こうようさんじん》の諸作の中より同一の警句の再三重用せられているものを捜し出した事もあった。唖々子の眼より見て当時の文壇第一の悪文家は国木田独歩《くにきだどっぽ》であった。
 その年雪が降り出した或日の晩方から電車の運転手が同盟罷工《どうめいひこう》を企てた事があった。尤《もっとも》わたしは終日外へ出なかったのでその
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