。座附《ざつき》女優諸嬢の妖艶なる湯上り姿を見るの機を得たのもこの時を以て始めとする。但し帝国劇場はこの時既に興行十年の星霜を経ていた。
 わたしはこの劇場のなおいまだ竣成《しゅんせい》せられなかった時、恐らくは当時『三田文学』を編輯《へんしゅう》していた故であろう。文壇の諸先輩と共に帝国ホテルに開かれた劇場の晩餐会に招飲せられたことがあった。尋《つい》でその舞台開《ぶたいびらき》の夕《ゆうべ》にも招待を受くるの栄《えい》に接したのであったが、褊陋《へんろう》甚しきわが一家の趣味は、わたしをしてその後十年の間この劇場の観棚《かんぽう》に坐することを躊躇《ちゅうちょ》せしめたのである。その何がためなるやは今日これを言う必要がない。
 今日ここに言うべき必要あるは、そのかつて劇場に来《きた》り看《み》る事の何故に罕《まれ》であったかという事よりも、今|遽《にわか》に来り看る事の何故頻繁になったかにあるであろう。拙作『三柏葉樹頭夜嵐』の舞台に登るに先立って、その稽古の楽屋に行われた時から、わたしは連宵《れんしょう》帝国劇場に足を運んだのみならず、折々女優を附近のカッフェーに招き迎えシャンパンの盃《さかずき》を挙げた。ここにおいて飛耳長目《ひじちょうもく》の徒は忽ちわが身辺を揣摩《しま》して艶事《つやごと》あるものとなした。
 巴里《パリー》輸入の絵葉書に見るが如き書割裏の情事の、果してわが身辺に起り得たか否かは、これまたここに語る必要があるまい。わたしの敢えて語らんと欲するのは、帝国劇場の女優を中介にして、わたしは聊《いささか》現代の空気に触れようと冀《こいねが》ったことである。久しく薗八一中節《そのはちいっちゅうぶし》の如き古曲をのみ喜び聴いていたわたしは、褊狭《へんきょう》なる自家の旧趣味を棄てて後《おく》れ走《ば》せながら時代の新俚謡《しんりよう》に耳を傾けようと思ったのである。わたしは果してわたしの望むが如くに、唐桟縞《とうざんじま》の旧衣を脱して結城紬《ゆうきつむぎ》の新様《しんよう》に追随する事ができたであろうか。
 現代思潮の変遷はその迅速なること奔流《ほんりゅう》もただならない。旦《あした》に見て斬新となすもの夕《ゆうべ》には既に陳腐となっている。槿花《きんか》の栄《えい》、秋扇《しゅうせん》の嘆《たん》、今は決して宮詩をつくる詩人の間文字《かんもじ》ではない。わたしは既に帝国劇場の開かれてより十星霜を経たことを言った。今日この劇場内外の空気の果して時代の趨勢を観察するに足るものであったか否か。これまた各自の見るところに任すより外はない。
 わたしは筆を中途に捨てたわが長編小説中のモデルを、しばしば帝国劇場に演ぜられた西洋オペラまたはコンセールの聴衆の中に索《もと》めようと力《つと》めた。また有楽座に開演せられる翻訳劇の観客に対しては特に精細なる注意をなした。わたしは漸《ようや》くにして現代の婦人の操履《そうり》についてやや知る事を得たような心持になった。それと共にわたしはいよいよわが制作の困難なることを知ったのである。およそ芸術の制作には観察と同情が必要である。描かんとする人物に対して、著作者の同情深厚ならざるときはその制作は必ず潤《うるお》いなき諷刺に堕《お》ち、小説中の人物は、唯作者の提供する問題の傀儡《かいらい》たるに畢《おわ》るのである。わたしの新しき女を見て纔《わずか》に興を催し得たのは、自家の辛辣《しんらつ》なる観察を娯《たの》しむに止《とどま》って、到底その上に出づるものではない。内心より同情を催す事は不可能であった。わたしの眼底には既に動しがたき定見がある。定見とは伝習の道徳観と並に審美観とである。これを破却するは曠世《こうせい》の天才にして初めて為し得るのである。
 わたしの眼に映じた新らしき女の生活は、あたかも婦人雑誌の表紙に見る石版摺《せきばんずり》の彩色画と殆《ほとんど》撰ぶところなきものであった。新しき女の持っている情緒は、夜店の賑《にぎわ》う郊外の新開町に立って苦学生の弾奏して銭を乞うヴァイオリンの唱歌を聞くに等しきものであった。
 小春治兵衛《こはるじへえ》の情事を語るに最も適したものは大阪の浄瑠璃である。浦里時次郎《うらざとときじろう》の艶事を伝うるに最《もっとも》適したものは江戸の浄瑠璃である。マスカニの歌劇は必《かならず》伊太利亜《イタリア》語を以て為されなければなるまい。
 然らば当今の女子、その身には窓掛に見るような染模様の羽織を引掛け、髪は大黒頭巾《だいとくずきん》を冠《かぶ》ったような耳隠しの束髪に結《ゆ》い、手には茄章魚《ゆでだこ》をぶらさげたようなハンドバッグを携え歩む姿を写し来って、宛然《さながら》生けるが如くならしむるものはけだしそのモデルと時代を同じくし感情を倶
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