十日の菊
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)山茶花《さざんか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近年|徒《いたずら》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2−13−57]
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一
庭の山茶花《さざんか》も散りかけた頃である。震災後家を挙げて阪地に去られた小山内《おさない》君がぷらとん社の主人を伴い、倶《とも》に上京してわたしの家を訪《おとな》われた。両君の来意は近年|徒《いたずら》に拙《せつ》を養うにのみ力《つと》めているわたしを激励して、小説に筆を執らしめんとするにあったらしい。
わたしは古机のひきだしに久しく二、三の草稿を蔵していた。しかしいずれも凡作見るに堪《た》えざる事を知って、稿《こう》半《なかば》にして筆を投じた反古《ほご》に過ぎない。この反古を取出して今更|漉返《すきかえ》しの草稿をつくるはわたしの甚《はなはだ》忍びない所である。さりとて旧友の好意を無にするは更に一層忍びがたしとする所である。
窮余の一策は辛うじて案じ出された。わたしは何故久しく筐底《きょうてい》の旧稿に筆をつぐ事ができなかったかを縷陳《るちん》して、纔《わずか》に一時の責《せめ》を塞《ふさ》ぐこととした。題して『十日の菊』となしたのは、災後|重陽《ちょうよう》を過ぎて旧友の来訪に接した喜びを寓するものと解せられたならば幸である。自ら未成の旧稿について饒舌《じょうぜつ》する事の甚しく時流に後《おく》れたるが故となすも、また何の妨《さまたげ》があろう。
二
まだ築地本願寺側の僑居《きょうきょ》にあった時、わたしは大に奮励して長篇の小説に筆をつけたことがあった。その題も『黄昏』と命じて、発端およそ百枚ばかり書いたのであるが、それぎり筆を投じて草稿を机の抽斗《ひきだし》に突き込んでしまった。その後現在の家に移居してもう四、五年になる。その間に抽斗の草稿は一枚二枚と剥ぎ裂かれて、煙管《キセル》の脂《やに》を拭う紙捻《こより》になったり、ランプの油壺やホヤを拭う反古紙になったりして、百枚ほどの草稿は今既に幾枚をも余さなくなった。風雨一過するごと
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