に電燈の消えてしまう今の世に旧時代の行燈《あんどう》とランプとは、家に必須《ひっす》の具たることをわたしはここに一言して置こう。
 わたしは何故百枚ほどの草稿を棄ててしまったかというに、それはいよいよ本題に進入《はい》るに当って、まず作中の主人公となすべき婦人の性格を描写しようとして、わたしは遽《にわか》にわが観察のなお熟していなかった事を知ったからである。わたしは主人公とすべき或婦人が米国の大学を卒業して日本に帰った後、女流の文学者と交際し神田青年会館に開かれる或婦人雑誌主催の文芸講演会に臨《のぞ》み一場《いちじょう》の演説をなす一段に至って、筆を擱《お》いて歎息した。
 初めわたしはさして苦しまずに、女主人公の老父がその愛嬢の帰朝を待つ胸中を描き得たのは、維新前後に人と為った人物の性行については、とにかく自分だけでは安心のつく程度まで了解し得るところがあったからである。これに反して当時のいわゆる新しい女の性格感情については、どことなく霧中に物を見るような気がしてならなかった。わたしは小説たる事を口実として、観察の不備を補うに空想を以てする事の制作上|甚《はなはだ》危険である事を知っている。それがため適当なるモデルを得るの日まで、この制作を中止しようと思い定めた。
 わたしはいかなる断篇たりともその稿を脱すれば、必《かならず》亡友|井上唖々《いのうえああ》子を招き、拙稿を朗読して子の批評を聴くことにしていた。これはわたしがまだ文壇に出ない時分からの習慣である。
 唖々子は弱冠の頃|式亭三馬《しきていさんば》の作と斎藤緑雨《さいとうりょくう》の文とを愛読し、他日二家にも劣らざる諷刺家たらんことを期していた人で、他人の文を見てその病弊を指※[#「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2−13−57]《してき》するには頗《すこぶ》る妙《みょう》を得ていた。一葉《いちよう》女史の『たけくらべ』には「ぞかし」という語が幾個あるかと数え出した事もあれば、紅葉山人《こうようさんじん》の諸作の中より同一の警句の再三重用せられているものを捜し出した事もあった。唖々子の眼より見て当時の文壇第一の悪文家は国木田独歩《くにきだどっぽ》であった。
 その年雪が降り出した或日の晩方から電車の運転手が同盟罷工《どうめいひこう》を企てた事があった。尤《もっとも》わたしは終日外へ出なかったのでその
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