名も今は覚えていない。わたくしは両親よりも一歩先《ひとあしさき》に横浜から船に乗り、そして神戸の港で、後から陸行して来られる両親を待合《まちあわせ》したのである。
 船は荷積をするため二日二晩|碇泊《ていはく》しているので、そのあいだに、わたくしは一人で京都大阪の名所を見歩き、生れて初めての旅行を娯《たの》しんだ。しかしその時の事は、大方忘れてしまった中に、一つ覚えているのは、文楽座《ぶんらくざ》で、後に摂津大掾《せっつのたいじょう》になった越路太夫《こしじだゆう》の、お俊伝兵衛を聴いたことだけである。
 やがて船が長崎につくと、薄紫地の絽《ろ》の長い服を着た商人らしい支那人が葉巻を啣《くわ》えながら小舟に乗って父をたずねに来た。その頃長崎には汽船が横づけになるような波止場《はとば》はなかった。わたくしは父を訪問しに来た支那人が帰りがけに船梯子《ふなばしご》を降りながら、サンパンと叫んで小舟を呼んだその声をきき、身は既に異郷にあるが如き一種言いがたい快感を覚えた事を今だに忘れ得ない。
 朝の中《うち》長崎についた船はその日の夕方近くに纜《ともづな》を解き、次の日の午後《ひるすぎ》には呉
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