《しょうへい》せられた人で、一度帰国した後、再び来遊して、大阪で病死した。遺稿『煮薬漫抄』の初めに詩人|小野湖山《おのこざん》のつくった略伝が載っている。
毎年庭の梅の散りかける頃になると、客間の床には、きまって何如璋の揮毫《きごう》した東坡《とうば》の絶句が懸けられるので、わたくしは老耄《ろうもう》した今日に至ってもなお能《よ》く左の二十八字を暗記している。
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梨花淡白柳深青 〔梨花《りか》は淡白《たんぱく》にして柳《やなぎ》は深青《しんせい》
柳絮飛時花満城 柳絮《りゅうじょ》の飛ぶ時 花《はな》 城《しろ》に満《み》つ
惆悵東欄一樹雪 惆悵《ちゅうちょう》す 東欄一樹《とうらんいちじゅ》の雪
人生看得幾清明 人生《じんせい》 看《み》るを得るは幾清明《いくせいめい》ぞ〕
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何如璋は明治の儒者文人の間には重んぜられた人であったと見え、その頃刊行せられた日本人の詩文集にして何氏の題字や序または評語を載せないものは殆どない。
わたくしが東京を去ったのは明治三十年の九月であったが、出帆《しゅっぱん》の日もまた乗込んだ汽船の
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