名も今は覚えていない。わたくしは両親よりも一歩先《ひとあしさき》に横浜から船に乗り、そして神戸の港で、後から陸行して来られる両親を待合《まちあわせ》したのである。
 船は荷積をするため二日二晩|碇泊《ていはく》しているので、そのあいだに、わたくしは一人で京都大阪の名所を見歩き、生れて初めての旅行を娯《たの》しんだ。しかしその時の事は、大方忘れてしまった中に、一つ覚えているのは、文楽座《ぶんらくざ》で、後に摂津大掾《せっつのたいじょう》になった越路太夫《こしじだゆう》の、お俊伝兵衛を聴いたことだけである。
 やがて船が長崎につくと、薄紫地の絽《ろ》の長い服を着た商人らしい支那人が葉巻を啣《くわ》えながら小舟に乗って父をたずねに来た。その頃長崎には汽船が横づけになるような波止場《はとば》はなかった。わたくしは父を訪問しに来た支那人が帰りがけに船梯子《ふなばしご》を降りながら、サンパンと叫んで小舟を呼んだその声をきき、身は既に異郷にあるが如き一種言いがたい快感を覚えた事を今だに忘れ得ない。
 朝の中《うち》長崎についた船はその日の夕方近くに纜《ともづな》を解き、次の日の午後《ひるすぎ》には呉淞《ウースン》の河口に入り、暫く蘆荻《ろてき》の間に潮待ちをした後、徐《おもむろ》に上海の埠頭《はとば》に着いた。父は官を辞した後《のち》商となり、その年の春頃から上海の或会社の事務を監督しておられたので、埠頭に立っていた大勢の人に迎えられ、二頭|立《だて》の箱馬車に乗った。母とわたくしも同じくこの馬車に乗ったが、東京で鉄道馬車の痩せた馬ばかり見馴れた眼には、革具《かわぐ》の立派な馬がいかにも好い形に見えた。馭者《ぎょしゃ》が二人、馬丁《ばてい》が二人、袖口《そでぐち》と襟《えり》とを赤地にした揃いの白服に、赤い総《ふさ》のついた陣笠《じんがさ》のようなものを冠っていた姿は、その頃東京では欧米の公使が威風堂々と堀端を乗り歩く馬車と同じようなので、わたくしの一家は俄《にわか》にえらいものになったような心持がした。
 会社の構内にあった父の社宅は、埠頭《はとば》から二、三町とは離れていないので、鞭《むち》の音をきくかと思うと、すぐさま石塀に沿うて鉄の門に入り、仏蘭西《フランス》風の灰色した石造りの家の階段に駐《とま》った。
 家は二階建で、下は広い応接間と食堂との二室である。その境の引戸を
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